出自と地方の治績
- 朱鑑は字を用明、晉江の人。子どものとき股の肉を割いて父の病を療した。郷試に挙がって蒲圻教諭を授かった。宣徳二年(1427年)、廬陵知県の孔文英ら四十三人とともに顧佐の推薦で召され、各道で三か月見習ってから御史に抜擢された。
- 湖廣を巡按し、梅花峒の賊の蕭啓寧らを諭して降らせた。旧制を復して副使・僉事とともに管内を巡行し民の疾苦を問うことを請うた。湖湘の風俗では男女の婚姻が三十を過ぎることが多かったが、鑑が礼制を明らかにしてその俗は改まった。三年で交代して帰った。
- 正統五年(1440年)、また広東を按じ、欽州に守備都指揮を設けることを奏した。命を奉じて囚人の記録を検め、罪を覆すことが多く、逃亡・叛乱した者をきわめて多く招き撫した。朝に還り、天下の按察司に僉事一人を増して専ら屯田を管理させることを請い、定制となった。
- 七年、推薦により山西左参政に抜擢され、平陽で薪を採って辺に供する夫役を減らすことを奏した。景帝が監国のとき布政使に進み、まもなく右副都御史に抜擢されてその地を巡撫した。
対額森の献策と山西の防衛
- 上言した。「額森の奸智はさまざまで、殺掠はやまず、そのうえ和親に事寄せて使を遣わしてうかがい、送駕を名目に関を開かせて中に迎え入れられることを望んでいる。少しでも拒む姿勢を示せば彼に口実ができる。その謀はすでに深いのだから、我らの慮りも遠くまで及ぼすべきである。しばらく中貴が監軍する制を廃し、総兵に生殺の権を委ねて、その志が挫かれず計を施せるようにし、散った兵を整え勇士を募り、賞の格を重く懸けて義兵を励まし、勤王の兵を徴して数道から並び進み、力を合わせて仇に報いれば、大駕は還り敵兵は自ずと退くであろう。昔、江南の寇が起こったのはみな王振を誅することを名目としていた。そもそも事が朝廷に帰すれば治まり、宦官に帰すれば乱れる。昔、高皇帝が群臣と事を議するとき必ず左右を退けたのは、機密が洩れるのを恐れたからである。権勢ある寵臣の門を閉ざし、およそ軍国の重事は大臣に任せれば必ず成るところがあろう」。景帝は嘉して容れた。
- 当時、衛拉特が塞をうかがい、鑑は日夜守備の計を立てた。景泰元年(1450年)、敵の数万騎が雁門を攻め、都指揮の李端が撃ち退けた。まもなく河曲および義井堡を犯して二人の指揮を殺し、忻州・代州の諸州を囲んだ。石亨らは防げず、敵は長駆して太原の城北に至り、山西は大いに震えた。鑑に雁門へ移って鎮するよう命じ、別に都督僉事の王良を遣わして太原を鎮させた。援兵が次第に集まり、敵も飽いて引き去った。
- 当時、山西は戦と飢饉に重ねて遭い、鑑は外に軍備を整え内に被災の民を撫し、労苦は至れり尽くせりであった。二年十月、鎮守山西都御史の羅通が召還され、鑑にその事を兼ね領させた。
- 翌年、詔して大臣を天下に遣わし官吏の黜陟をさせた。礼部侍郎の鄒幹が山西に至って多くを弾劾したので、鑑は幹を召し還すことを請うた。幹はそこで鑑がかばい立てしていると極論し、帝は幹の言を是とした。その年十月、鑑を召して院務を補佐させ、京に至ると致仕して去った。
- 初め景帝が皇太子を替えたとき、鑑は大学士の陳循に書を送って不可を言い、さらに「陛下は上皇に対して位を避けて大義を全うされるべきだ」と言った。循は大いに驚いた。英宗が復位すると、鑑は闕に詣でて表を上げて賀した。帝は「鑑は老いて病んでいる。何を軽々しく来たか。早く帰らせよ」と言った。郷里に居ること二十余年で卒した。