京師防衛と太僕の職守
- 程信は字を彦實。その先は休寧の人で、洪武年間に河間に戍って住みついた。信は正統七年(1442年)の進士に挙がり、吏科給事中を授かった。景帝が即位すると薛瑄ら三人を薦めて起用させた。
- 額森が京師を犯したとき、信は軍を督して西城を守り、五事を上言した。都督の孫鏜が額森を撃って利を失い城に入ろうとしたが、信は入れず、軍を督して城上から矢と礟を放って助けた。鏜は戦いをいよいよ励み、額森はついに退いた。
- 景泰元年(1450年)、畿輔の飢民を賑わすこと、および河間の学官・生徒で戦のために罷め遣られた者を復すことを請い、いずれも許された。左給事中に進み、天変により中興固本の十事を上げた。その「敬天」の条では、帝に孝友の実を篤くして天心に応えることを請うた。帝は嘉して容れた。
- 翌年二月、出て山東右参政となり遼東で兵糧を督した。巡撫の寇深が、糧を盗むこと一石以上の者は死とすることを奏し、また新しい斛を作って旧より大きくし、信に検査させた。信はその場でこれを砕き、「どうして人を死に陥れようか」と言った。深はこれにより快く思わなかった。まもなく喪で去った。
- 喪が明けて四川参政に起用され松潘の兵糧を管理し、侍郎の羅綺とともに黒虎の諸寨を破った。
- 天順元年(1457年)、信は入朝して賀した。ちょうど景泰年間に進言した者を録していたので、特に太僕卿に抜擢された。京衛の馬は古くから損耗が多かったので、信は期限を定めて徴した。三営の大将の石亨・孫鏜・曹欽はいずれも奪門の功で寵を得ており、諸武臣をかばって太僕が苛酷に急き立てていると言い、兵部に隷することを請うた。信は「高皇帝は太僕の馬の数を人に知られぬようにと令された。もし兵部に隷せば、馬の増減を太僕が知り得なくなる。万一の警急に馬が足りなければ、誰がその咎を負うのか」と言い、帝はこれを是として、そのまま太僕に隷させた。
- 翌年、左僉都御史に改まり遼東を巡撫した。都指揮の夏霖がほしいままに不法を行い、僉事の胡鼎がその四十の罪を摘発したので、信はこれを言上して霖を錦衣の獄に下した。門達が、信は代わって奏すべきでないと言い、帝は責めて申し開きをさせた。時に寇深がちょうど都察院を掌っており、前の遺恨を晴らして信を弾劾し、召し出して詔獄に下し、南京太僕少卿に降した。五年、詔して刑部右侍郎とした。母の喪で帰った。
都掌蠻の征討と晩年
- 成化元年(1465年)、兵部に起用され、まもなく左侍郎に転じた。四川の戎縣の山都掌蠻が幾度も叛いて合江ら九県を陥れた。廷議は大軍を発して討つこととし、襄城伯の李瑾を総兵官、太監の劉仁を監督とし、信を尚書に進めて軍務を提督させた。永寧に至って次のように分遣した。
- 都督の芮成――戎縣から
- 巡撫貴州都御史の陳宜・参将の吳経――芒部から
- 都指揮の崔旻――普市・氷腦から
- 南寧伯の毛榮――寧子関から
- 巡撫四川都御史の汪浩・参将の宰用――渡船鋪から
- 左右遊撃将軍の羅秉忠・穆義――金鵝池から
- 信と瑾は中央にあって統制した。転戦六日で龍背・豹尾の諸寨七百五十余を破り、翌年、大壩に至って寨千四百五十を焼き、前後の斬首は四千五百余、俘獲は数知れなかった。九姓のうち帰順しない者を糾し、瀘州衛に還し、渡船鋪に関堡を増し、大壩を太平川長官司と改め、山都掌の地を分けて官を設け役所を建てて統制した。帝は璽書を下して嘉し労い、功を録して大理寺卿を兼ねさせた。
- 白圭とともに兵部に臨んだ。言官が信の上げた首級の功が事実でないと弾劾し、信は四度上疏して引退を乞うたが許されなかった。信は事を為そうとしたが圭に阻まれ、心穏やかならず、しばしば病と称した。
- 六年(1470年)春の旱により詔に応じて、兵事で改めるべきもの四事、兵の弊で正すべきもの五事を言った。その大略は、延綏と両廣が年ごとに劫掠に遭っているので大臣を択んで総制すべきこと、四方の流民が多く荊・襄に集まっているので早く区画すべきこと、京軍の操練に法がないこと、功次に応じた昇進・恩賞が当を得ていないことで、その言葉は多く圭を突いた。圭は奏して取り下げさせた。
- 南京兵部に改めて機務を参賛させ、翌年致仕し、年を越えて卒した。太子少保を贈り、襄毅と諡した。
- 信は才力があり大体をわきまえていた。南蛮を征したとき、制度上は便宜のはからいを許されていたが、軍を還すまで独断で一人も賞したり誅したりしなかった。「刑と賞は君主の大権である。やむを得ず人に仮すのだ。たまたま事が成ったからといってすぐ自ら専らにするのは、人臣のなすべきことではない」と言った。南京にいたとき守備の臣が銭穀・訴訟の事に関与しようとしたが、信は「守備は重臣であり、非常時に備えるためのものだ。これらは有司の職務である」と言い、論者はこれを是とした。子の敏政は文苑伝にある。