明史卷一百七十二 列傳第六十 侯璡

侯璡

  • 侯璡は字を廷玉、澤州の人。若くして気概があり志節があった。宣徳二年(1427年)の進士で行人を授かった。烏撒・烏蒙の土官が土地を争って仇殺したので、詔して璡および同僚の章聰を遣わして諭し和解させ、その境界を正して還った。
  • 侍郎の章敞に副って交阯に使いしたとき、関門が低くて先導の者はかがんで入った。璡は「これは犬のくぐり戸だ。どうして天子の使いを辱められようか」と叱り、交人が門を毀ってようやく入った。帰るとき贈り物は一切受けなかった。
  • 兵部主事に遷る。正統の初め、尚書の柴車らに従って鉄門関を出て阿勒台を防いで功があり、郎中に進んだ。王驥に従って麓門を征し、金齒に至った。驥は自ら大軍を率いて思任發を撃ち、璡を遣わして大侯州を救わせた。賊の衆三万が至ったが、都指揮の馬讓・盧鉞を督して撃ち走らせ、そのまま高黎貢山を通って道を兼ねて夜行し、大軍と合してその本拠を圧した。麓川が平らぐと礼部右侍郎に拝され雲南軍務を参賛し、詔して楊寧と二年ごとに交代させた。驥が再び麓川を征したとき、璡は功により左侍郎に遷った。九年に交代して還り、母の喪。起復してまもなく兵部に移された。十一年(1446年)、また寧に代わって雲南を鎮した。思機發が孟養に逃げて驥がまた南征したとき、璡は都督の張軏と兵を分けて進み、金沙江に至って鬼哭山でこれを破った。璽書で褒賞された。
  • 景泰の初め、貴州の苗の韋同烈が叛いて新添・平越・清平・興隆の諸衛を囲んだので、璡に貴州軍務を総督して討たせた。時に副総兵の田禮がすでに新添・平越の囲みを解いていた。璡は兵を遣わして都盧・水西の諸賊を攻め破り、貴州の道が初めて通じた。また雲南の兵を動員して烏撒から合流させ、畢節の諸路を開き、普安の土兵に檄して安南衛を援けさせ、自ら軍を率いて紫塘・彌勒ら十余の寨を攻めた。賊がまた平越を囲んだので軍を返して撃退し、そのまま七盤坡・羊腸河・楊老堡に哨を分けて清平の囲みを解き、東は重安江に至って驥の兵と興隆で合し、鎮遠に至る道はすべて通じた。
  • 勝報が届いて兵部尚書に昇り、克賞を進めた。苗を改め、その頭目の王阿同ら三十四人を捕らえた。別の賊の阿趙が趙王を僭称して衆を率いて清平を掠めたので、璡はまた討って捕らえた。水西の苗の阿忽ら六族はみな自ら帰化を願い出、詔して璡に随時処置させた。景泰元年(1450年)八月、心身の疲れから普定で卒した。年五十三。祭葬を賜い、その子を錦衣衛世襲千戸に廕せられた。