明史卷一百七十二 列傳第六十 楊寧

楊寧

  • 楊寕は字を彦謐、歙の人。宣徳五年(1430年)の進士で刑部主事を授かった。機敏で才能が多く、当時評判を得た。正統の初め、尚書の魏源に従って宣府・大同を巡視した。
  • 四年(1439年)、都督の吳亮と麓川を征したとき、賊が軍門に降伏を申し出た。寕は「兵をまだ加えないうちに先に降るのは我を誘うのだ。厳しく兵を備えて待つべきだ」と言ったが聴かれず、寕には金齒での輸送督励を命じた。やがて賊は果たして大挙して来て官兵は敗れ、諸将は罪を得たが、寕は郎中に抜擢された。また王驥に従って騰衝に至り賊を破った。寕は太僕少卿の李蕡とともに督戦していずれも功があり、軍が還ると寕は序列を越えて刑部右侍郎に拝された。母の喪に遭ったが喪を奪われた。
  • 九年、侯璡に代わって雲南軍務を参賛した。当時、麓川が平らいだばかりで、寕は騰衝が要害の地であるとして、都督の沐昂と城を築いて衛を置き戍兵を設け、諸蛮を抑えたので辺境はついに安定した。二年いて召還された。
  • 閩・浙で盗が起こると、寕に江西を鎮させた。賊が来ればそのつど撃ち破り、暇には民の疾苦を尋ね、境内は心服した。
  • 景泰の初め、召されて礼部尚書に拝され、胡濙とともに部務を執った。迤北の汗が使を遣わして入貢したとき、寕は「使人を数日留めて宴と労いを与え、賜与は額森の使者に比べて倍に厚くすべきである。彼らは猜疑心が強いので、二人は必ず内部で争い、辺患は緩む」と言った。帝は誠信を旨として許さなかった。その冬、足の病により南京刑部に移された。
  • 七年、御史の莊昇に弾劾され、調査に人を遣わしてまだ結果が出ないうちに、寕は力の限り言官を罵った。都察院が重ねて、寕が言路を脅し制していると弾劾したが、詔してその罪を免じ、供述書を録して示した。英宗が復辟すると致仕を命ぜられ、翌年卒した。
  • 寕は才があったが権貴と交わるのが上手であった。かつて自ら前後の戦功を述べて世廕を乞い、子の堣はまだ一歳であったのに新安衛副千総を得た。