出自と初期の経歴
- 羅亨信は字を用實、東莞の人。永樂二年(1404年)の進士で庶吉士に改められ、工科給事中を授かった。出て浙江の水害を視察し、三県の租を免ずることを奏した。吏科右給事中に進んだが、連座して交阯に流されて吏となり、九年そこにいた。仁宗が位を嗣いで初めて召されて御史となり、通州の倉の備蓄を検査し、畿内を巡按し、山西で軍籍を整理し、いずれも評判がよかった。
- 宣徳年間、地方長官の任に堪えると薦める者があり、按察僉事の俸を食んで昇進を待たせた。英宗即位の三月、右僉都御史に抜擢され、平涼・西寧で練兵した。
- 正統二年(1437年)、蔣貴が阿勒台・多爾濟巴勒を討ったとき、亨信は軍務に参じた。漁兒海に至って貴が飼葉と兵糧が続かないとして十日留まって引き揚げようとしたので、亨信は責めて言った、「公らは国恩を厚く受けている。敵を前に退き縮むのか。法で死ぬのと敵と戦って死ぬのと、どちらがよいか」。貴は従わず、亨信は上章して貴が留まって進まないさまを言上した。帝はその章を監督尚書の王驥らに示した。翌年、兵を進めて大破し、亨信は参賛の功で秩を一等進めた。
- 父の喪で帰葬し、朝に還ると宣府・大同の巡撫に改められた。参将の石亨が大同の民の三分の一を選んで軍に充てることを請うたが、亨信は奏して止めさせた。
軍田課税への反対と辺備の献策
- 十年(1445年)、右副都御史に進み、巡撫は元のまま。当時、官を遣わして二鎮の軍田を測量し、一軍あたり八十畝を超える分にはすべて税五升を徴することとした。亨信は言った。「文皇帝のとき、辺軍に力を尽くして開墾させ税を徴さぬよう詔があり、陛下も重ねて命じられた。今なぜ急にこのような挙に出るのか。塞上の諸軍は辺を防いで労苦し、他に生業がなくただ田作に従っている。毎年冬から春にかけて衛拉特の使臣を送り迎えし、三月にようやく田につき、七月にはまた草を刈り、八月以後は関塞を修理する。一年のうち休みというものが全くない。まして辺地は痩せて霜が早く収穫は薄い。さらに税を徴せば民は再び耕さず、必ず逃げ散る。計臣はただ粟を積むことに務めるが、人心が固まらなければ粟があっても誰とともに守るのかを知らない」。帝はその言を容れて取りやめた。
- 初め亨信はかつて、額森は専ら争いの糸口をうかがって侵入を図っているので、あらかじめ真北の要害に城衛を増置して備えるべきで、さもなければ大患を残すと奏したが、兵部の議は取り上げず行われなかった。
土木の変と宣府死守
- 土木の変が起こると人心は騒然として懼れ、宣府城を棄てようと議する者があり、官吏・軍民が争って出ようとした。亨信は剣を杖いて城下に坐し、「城を出る者は斬る」と令し、また諸将と朝廷のために死守することを誓い、人心はようやく定まった。
- 額森が上皇を擁して城南に至り、命を伝えて門を開かせようとしたが、亨信は城に登って「命を奉じて城を守っております。ほしいままに開くことはできません」と言い、額森はためらって引き去った。赤城・鵬鶚・懐来・永寧・保安の諸守将は城を棄てて逃げたので、あわせてその罪を糾した。
- このとき車駕はすでに北にあり、寇の騎兵は日々城下に迫り、関門の左右はみな戦場であった。守信は総兵の楊洪とともに孤城でその衝に当たり、外は強寇を防ぎ内は京師の屏となった。洪が京師の守備に入った後は、また朱謙とともに守り、労績が甚だ著しく、兜鍪をかぶった所は髪がすっかり抜け落ちた。
- 景帝が即位して左副都御史に進んだ。翌年、七十四歳になったので致仕を乞い、許された。帰って八年(1457年)、家で卒した。