明史卷一百七十一 列傳第五十九 王越

出自と大同巡撫

  • 王越は字を世昌、濬の人。長身で力があり射を善くし、書史に通じて大局を見る眼があった。景㤗二年(1451年)の進士。廷試の日、つむじ風が起こって答案を吹き飛ばしたので、別の答案用紙を給されてようやく終えた。
  • 御史を授かり、出て陝西を按じた。父の訃を聞くと後任を待たずに帰ったので都御史に弾劾されたが、帝は特に赦した。
  • 天順の初め、起用されて諸道の章奏を掌り、序列を越えて山東按察使に拝された。七年(1463年)、大同巡撫の都御史韓雍が召還され、帝はその後任に困って歎じ、「どうしたら雍のような者を得て任せられようか」と言った。李賢が越を薦めて召見された。越は堂々たる体躯に袖の短い服を着、立ち居振る舞いが機敏だったので帝は喜び、右副都御史に抜擢して赴かせた。着任してすぐ母の喪に遭ったが、喪を奪って職務に当たらせた。越は武具を修繕し、兵卒を選抜し、堡砦を修め、課税を減らして商を勧め、長期の計を立てた。
  • 成化三年(1467年)、撫寧侯朱永が瑪拉噶を征するにあたり、越を賛理軍務とした。その秋、宣府巡撫を兼ねた。

河套の攻防

  • 五年(1469年)冬、寇が河套に入り、延綏巡撫の王鋭が援兵を請うたので、越に軍を率いて赴くよう詔した。
  • 河套は朔方・秦・河南の地をめぐる一帯で、土は肥え水草に富み、東は山西の偏頭関、西は寧夏に至るまで二千里ほど。三面は河に阻まれ、北は榆林の背を扼する。唐の三受降城は河の外にあり、もと内地であった。明初は河を隔てて守り、延綏も無事であった。天順年間から瑪拉噶ら三部が初めて入って寇となったが、当時は出没するばかりで久しく駐まる勇気はなかった。ここに至って初めてその中に屯して牧するようになり、しばしば辺患となった。
  • 越は榆林に至り、遊撃将軍の許寧を西路の龍州・鎮靖の諸堡に、范景を東路の神木・鎮羌の諸堡に出し、自らは中官の秦剛と榆林城に拠って後詰とした。寧は黎家澗で戦い、瑾は崖窰川で戦い、いずれも勝った。右参将の神英もまた鎮羌で敵を破り、寇はようやく退いた。
  • 翌年正月、勝報を送って越は引き揚げ、偏頭関に至った。延綏が警を告げたので、兵部は越がほしいままに引き揚げたと弾劾した。詔して罪せず、越に延綏の近くに屯して後詰とするよう命じた。寇の一万余騎が五路から入って掠めたが、越は寧らに撃ち退かせ、右副都御史に進んだ。
  • この年三月、朝廷は阿勒楚爾らが辺境を擾すのがやまないので、撫寧侯朱永を将軍に拝して越とともに図らせた。開荒川で敵を破り、追撃して牛家寨に至り、阿勒楚爾は流れ矢に当たって走った。論功して右都御史に進んだ。
  • その翌年、越は西征中であるとして大同巡撫を辞し、詔して許され、総督軍務を加えて専ら西方の事に当たった。しかしこのとき寇は数万で、官軍のうち戦えるのは僅か一万人、しかも分散して守っていたので、勢いとして敵し得なかった。永と越は戦・守の二策を条を分けて上げたが、尚書の白圭も難色を示し、諸将に守らせる敕を請うた。その年、寇はまた続けて懐遠の諸堡に入り、永と越はこれを防いで退けた。圭は改めて大挙して河套を掃討することを請うた。
  • 翌年、侍郎の葉盛を軍に遣わして議させた。時に永はすでに召還されており、越は士卒の衣装がことごとく破れ馬は半ば以上死んだとして、しばらく兵を休めることを請い、盛とともに還ろうとした。しかし廷議は、河套を掃わなければ三辺に安寧の年はない、先に動員した諸軍はすでに八万を超えているのに将の権が一つでないため成功しない、専ら大将を遣わして采配させるべきだとした。そこで武靖伯の趙輔を平虜将軍に拝し、陝西・寧夏・延綏の三鎮の兵はみなその節制を受けるよう敕し、越が軍務を総督した。
  • 着いたとき寇はすでに深く入って環州・慶陽・固原で存分に掠奪しており、軍はついに功がなかった。越と輔は、們都埒・博囉呼・伽嘉色凌が今まさに強盛で勢いとして破りがたいとし、奏して言った。「河套をくまなく掃討しようとすれば精兵十五万でなければならない。今は兵糧の輸送が煩わしく公私ともに困窮しており、重ねて課税を加えれば内部の変が憂えられる。しばらく退いて守り、士馬を分けて帰し、精鋭だけを量って残して鄜州・延州で兵糧を得させ、沿辺の軍民はことごとく内地に移し、寇の出没する所には多く烽燧を置き、塹を掘り牆を築いて守りの拠り所とすべきである」。奏が上がったが廷議は決しなかった。
  • 越らはまた奏した。「寇は我が軍が大挙して集まったのを知り、営を河の近くに移してひそかに北渡を謀っており、戦わずして屈するに近い。ただ山西・陝西は荒れて旱り、飼葉と兵糧の供給が欠け、辺地は早く寒くなって凍えと飢えが相次ぐ。時をもって量るに攻め取ることは実に難しい。防守の策に従うことを請う。臣らもしばらく朝に還りたい」。そこで部・科の諸臣が越と輔を欺瞞であると弾劾した。輔が病を得たので召還し、寧晉伯の劉聚を代わりとした。
  • 翌年、越は聚とともに漫天嶺で寇を破り、左都御史に進んだ。このとき三たび大将を遣わし、いずれも越が軍務を総督したが、寇は入るたびに少し撃てば去り、軍が引き揚げればすぐまた来て、おおむね一年に数度侵入した。将士はますます寇を侮り、寇の勢いはかえって熾んになった。

紅塩池の奇襲と三辺総制

  • その年九月、們都埒および傅囉呼・伽嘉色凌が妻子・老弱を紅塩池に留めて大挙して深く侵入し、まっすぐ㤗州・安定の諸州県に至った。越は、寇が精鋭を尽くして西に向かい東側に備えがないと読み、延綏総兵官の許寧、遊撃将軍の周玉にそれぞれ五千騎を率いさせて左右の哨とし、榆林を出て紅兒山を越え、白塩灘を渉り、二昼夜で八百里を行った。
  • 到着間際に暴風が起こって塵が目を覆った。一人の老卒が進み出て言った、「天が我らを助けるのです。風に背を向けて行けば敵は気づきません。軍を還して帰る寇に遭うときは風下に位置し、風に乗って撃てば勝たぬはずがありません」。越はすぐ馬を下りてこれを拝し、千戸に抜擢した。
  • 兵千人を分けて十の伏兵とし、自ら寧と玉を率いて両翼を張ってその営に迫り、大いに破って三百五十を擒斬し、駝馬・武具を数知れず獲て、その廬帳を焼いて還った。們埒都らが掠奪して帰ると、妻子も家畜も財産もすでに失われており、顔を見合わせて痛哭し、これより遠く北へ移って再び河套に居る勇気を失った。西の辺境が肩を休められたのは数年に及んだ。
  • 初め、文臣で軍を視る者はおおむね大軍の後ろに従って号令を伝え賞罰を行うだけであったが、越は初めて跳ね回る勇士を多く選んで腹心の将とし、自ら寇と組み打ちし、また間諜で敵の輜重が重いのを探って迎え撃ち、あるいははぐれた騎を切り取った。これによってしばしば功があった。
  • 十年(1474年)春、廷議で総制府を固原に設け、定西侯の蔣琬を総兵官に挙げ、越が軍務を提督して延綏・寧夏・甘肅の三辺を統轄し、総兵・巡撫以下はみなその節制を受けることとした。詔して琬を罷め、そのまま越をこれに任じた。三辺に総制を設けたのはここに始まる。
  • 論功して太子少保を加え俸を一級増した。紀功郎中の張謹、兵科給事中の郭鏜らが劉聚らの濫殺・功の詐称を論じ、あわせて越の妄りな奏上を弾劾した。越は自ら功は大きいのに賞は薄いと思っていたので、そのまま不満のうちに病と称して朝に還った。

汪直との結託

  • 翌年、左都御史の李賔とともに院務を掌り、あわせて十二団営を督した。越は日ごろから才を誇って小節を修めなかったので朝議に噛みつかれていたが、ここに至って名節を破り、群小と通じた。
  • 奸人の韋英は官奴として延綏に従軍し功を偽って百戸を得た者だが、汪直が西厰を掌って権を握るとその手先となった。越は英を通じて自ら直と結んだ。
  • 内閣が西厰の廃止を論じたとき、越は大学士の劉吉・劉珝に朝で出会って公然と言った、「汪直の行いもまた甚だ公正である。黄賜が権を専らにし賄を受けているのは、直でなければ除けない。啇輅は職にあること久しく是非が多く、憚るところがある。二公は入閣して幾日も経たないのに、どうしてこんなことをするのか」。珝は「我らの言うところは身のための謀ではない。直の行うことがみな公正であるなら、朝廷が公卿大夫を置くのは何のためか」と答え、越は答えられなかった。
  • 兵部尚書の項忠が罷めたとき、越は昇るはずであったのに、朝命は陝西巡撫の余子俊に与えられた。越はますます不平で、営務を解くことを請うたが優詔して許されなかった。そこで自ら、敵の巣を搗いた功が故尚書の白圭に抑えられ、従軍した将士に叙されないままの者が多いので、自分に加えられた官を移して報いたいと陳べた。子俊もまた越の賞が功に酬いていないと言ったので、兵部尚書に進めてなお院務を掌らせ、まもなく太子太保を加えた。

威寧海子の戦いと封伯

  • 越は功名に急であった。汪直が初めて東征したとき、越は督師を望んだが陳鉞に阻まれた。鉞が急に寵を得たので、心はますますこれを羨んだ。
  • 十六年(1480年)春、延綏の守臣が、寇がひそかに河を渡って靖虜に入ったと奏したので、越は直を説いて出師させた。詔して保国公朱永を平虜将軍に拝し、直が監軍、越が軍務を提督した。越は直を説いて、永に大軍を率いて南路から行かせ、自分は直とともに軽騎を率いて塞垣沿いに西へ行き、ともに榆林で会することとした。
  • 越は大同に至り、敵の帳が威寧海子にあると聞くと、宣府・大同両鎮の兵二万を選り抜いて孤店を出、ひそかに進んで猫兒莊に至り、数道に分かれた。大風雨と雪で暗くなる中を進んで威寧に至り、寇はなお気づいていなかった。不意を撃って大いに破り、斬首四百三十余級、馬・駝・牛羊六千を獲た。軍は榆林に至らずに還った。永の進んだ道は迂遠で敵に遭わず功がなかった。
  • これによって越を威寧伯に封じ、世襲、歳禄千二百石とした。越は封を受けた以上は都察院を領すべきでなかったが、越は西班(武班)に就くことを望まず、御史の許進らがその功を頌えて王驥・楊善の例を引き、なお院務を領して団営を提督することを請い、許された。
  • 翌年、また直・永とともに軍を率いて大同に出、たまたま寇が入って掠めたので追撃して黒石崖に至り、百二十余人を擒斬し、馬七百匹を獲た。太子太傅に進み歳禄四百石を増した。明の制では文臣は公侯に封ぜられないので、越は勲臣の例に従って前軍都督府を掌るのに改め、五軍営の兵を総べ、団営を督することは元のままとした。これより真に武人となり、しかも侯を望むまでになった。
  • その年五月、宣府が警を告げたので、平胡将軍の印を佩びさせて総兵官とし、また直に軍務を監督させ、京軍一万人を率いて赴かせた。着いたときには寇はすでに去っていたので、そのままその地に留屯した。冬になって直は仲間に離間されて寵が衰えた。越らが再び班師を請うたが許されなかった。陳鉞は兵部にあって直に代わって請うたが、帝は厳しく責め、二人は初めて懼れた。
  • まもなく大同総兵の孫鉞が卒したので、越にこれを代えさせ、直に大同・宣府を総鎮させ、京営の将士をことごとく召還した。翌年、寇が延綏を犯し、越らは兵を調えて援け、かなりの斬獲があり、禄五十石を増した。
  • 帝はこのころ越と直の交結のさまをますます知った。大学士の萬安らは、越に知略があるので直を誘ってまた進出させることを恐れ、越を延綏に移して引き離すことを請い、二人の勢いはますます衰えた。

失脚と復起、最期

  • 翌年、直が罪を得ると、言官はあわせて越を弾劾した。詔して爵を奪い名を除き、安陸に謫居させた。三人の子で功により官を得ていた者もみな籍を削られた。さらに使を遣わし敕を持たせて諭させた。越は使が来ると聞いて自害しようとしたが、敕に寛大な語があるのを見てやや安んじた。
  • 越は礼法の士に憎まれて以来、豪傑をもって自任して傲然と平然としており、飲食も供回りも王者になぞらえ、射猟や音楽をほしいままにし、流謫されても少しも衰えなかった。それゆえ罪を得たときは、議者はかなり行き過ぎだと言ったが、ついに冤を晴らす者はいなかった。
  • 孝宗が立つと敕して帰らせ、𢎞治七年(1494年)、越はたびたび上疏して冤を訴え、詔して左都御史を復して致仕させた。越は七十歳の老齢であったが、また中官の李廣と結んで中旨により召されて都察院の事を掌った。給事中の李源、御史の王一言らが次々に章を上げて論じたので、取りやめとなった。
  • 十年(1497年)冬、寇が甘肅を犯し、廷議は総制官を復置することとした。前後に七人を推挙したが旨に称わず、吏部尚書の屠滽が越の名を上げたので、旧官に起用して太子太保を加え、甘涼の辺務を総制して巡撫を兼ねさせる詔が下った。越は、甘鎮の兵は弱く延綏・寧夏両鎮の兵を借りなければ敵に克ちがたいとして、両鎮を兼ね制して巡撫の事を解くことを請い、許された。
  • 翌年、越は寇の巣が賀蘭山の後ろにあってしばしば辺境を擾すので、兵を三路に分けて討伐し、四十三級を斬り、馬・駝百余を獲た。少保兼太子太傅を加えられ、そこで哈密の制置に関する事宜を条を分けて上げた。李廣が罪を得て死に、言官が連ねて章を上げて廣の一党を弾劾したのがみな越に及んだ。越は聞いて憂え恨み、その冬、甘州で卒した。太傅を贈り、襄敏と諡した。

人となり

  • 越は姿かたちが際立ち、議論は颯爽としていた。久しく辺境を歴任して身に十余度の戦を経、敵情の真偽および将士の勇怯を見抜き、奇策を出して勝ちを制し、動けば必ず成算があった。士人を奨励抜擢し、豪傑を包み込み、財を用いること流れる水のようであったから、人は喜んで用いられた。また楊守隨・佀鍾・屠滽らを薦め、いずれも世に名があった。一族に睦まじく旧誼に篤く、窮乏を救い貧しきを恤むことは、間に合わないのを恐れるかのようであった。
  • その胆力と知略は人にはるかに勝っていた。かつて朱永と千人を率いて辺境を巡ったとき、寇が突然に至った。永は逃げようとしたが、越は止めて陣を列ねて自ら固めた。寇は疑って進めなかった。夕暮れに騎をみな下馬させて枚を銜ませ、一列で行かせ、自ら精鋭を率いて殿となり、山の後ろを五十里行って城に至った。永に言った、「我らがひとたび動けば寇は追撃し、生き残る者はなかった。余裕あるさまを示して惑わせたのだ。下馬して行けば軍の物音がせず、寇に気づかせずに済んだのだ」。
  • 性はもともと豪放であった。かつて西へ行って秦王に謁したとき、王が宴を開いて妓を奏させた。越は王に「下官は王のために吠える犬となって久しい。何も酬いてくださらぬのか」と言い、そのままその妓女をすべて乞い受けて帰った。
  • ある夕べ、大雪の中で炉を囲んで飲み、諸妓が琵琶を抱いて侍していた。一人の小校が敵情を偵察して帰り、敵情を述べ終わらぬうちに、越は大いに喜んで金の杯に酌んで飲ませ、琵琶を弾かせて酒に添え、そのまま金の杯を賜った。話が終わるとさらに喜び、飛び抜けて美しい妓を指して「これを得たらどうか」と目くばせした。小校が恐れ入って辞退すると、越は大笑してその場で与えた。小校は赴く先々で死力を尽くした。
  • 越の在世中、人は多くその功を貪ることを咎めたが、死後は将は臆し卒は怠り、功を偽り兵糧を浪費することがますます甚だしくなった。辺境の臣にはついに越のような者は出なかった。

史論

  • 贊に曰く。人は才があることが難しいのではなく、その才を善く用いることが難しい。王驥・王越の用兵、楊善の奉使、徐有貞の治河は、その才いずれも人に勝るものがあった。
  • もし世の流れに随って着実に進み、才幹をもって自ら奮い立ったなら、名ある卿大夫たるを失わなかったであろう。ところが出世を焦って人に依り縋り、割符を分かって封爵を受け、文臣としては世に稀な処遇でありながら、そのために名誉と声望が損なわれ、甚だしきは削奪を免れなかった。名節の関わるところは、重んじないでよかろうか。