出自と経歴
- 楊善は字を思敬、大興の人。十七歳で諸生となった。成祖の挙兵のとき城の守備に加わって功があり、典儀所の引礼舎人を授かった。永樂元年(1403年)、鴻臚寺序班に改まった。善は風采が立派で声が朗々とし、進退の作法に巧みで、朝謁や取次ぎ・奏事のたびに上は目をとめた。累進して右寺丞。仁宗が即位すると本寺卿に抜擢された。
- 宣徳六年(1431年)、弾劾されて獄に下り冠帯を剥がれたが、一月余りで復した。正統六年(1441年)、子の容が中官の書を偽作して尚書の吳中から金を借りたことが発覚し、威遠衛に流されたが、善は不問に付された。久しくして礼部左侍郎に抜擢され、なお鴻臚の事も見た。
- 十四年(1449年)八月、車駕に扈従して北征し、土木で軍が潰えると間道を通って脱れた。額森が侵入しようとしたので左副都御史に改め、都督の王通とともに京城の守備を提督した。寇が退くと右都御史に進み、鴻臚を見ることは元のままであった。
- 景㤗元年(1450年)、廷臣が朝正の儀を終え、旧例により朝房で互いに賀した。善は独り涙を流して「上皇はどこにおられるのに、我らは互いに賀するのか」と言い、衆は恥じて賀を取りやめた。
額森への使節
- この年の夏、李實・羅綺が衛拉特に使いして罷兵を議し、まだ還らないうちに額森の使者が来て、「朝廷は使を遣わして阿拉知院に返礼したが、大臣を遣わして汗および太師に返礼しないのでは、事は必ず成らない」と言った。尚書の王直らがその言を奏し、廷議は四人を選んで正使・副使とし同行させることとしたが、帝は李實の帰還を待って議せよと命じた。やがて實が到着しようとするころ、善および侍郎の趙榮を使者として、金銀・書幣を持たせて先に赴かせることとなった。
- 先に袁敏という者が御用の品を持って上皇の安否を問うことを請うたが容れられなかった。ここに至って尚書の胡濙らが、上皇が蒙塵して久しいので御用の衣服・食物を善らに託して随行させるべきだと言ったが、これも返答がなかった。当時、額森は上皇を還そうとしていたが、敕書には奉迎の語がなく、額森に賜う分のほかは善らへの賜与もなかった。そこで善は自分の家財を出して先方で必要とされる品をすべて買い揃え、携えて赴いた。
- 到着すると、館伴が帳の中で酒を飲みながら善をなじった、「土木の役で六師はなんと臆病だったことか」。善は答えた、「あのとき官軍の壮健な者はみな南征に出ており、王司礼が大駕を自分の郷里に行幸させて戦備を整えなかったので、そなたらに志を得させたにすぎない。今は南征の将士が帰って二十万ほどおり、さらに中外の材官・技撃を三十万募って、みな神鎗・火器を教え込んだ。薬弩は百歩の外から人馬の腹を貫いて即死させる。また策士の言によって辺境の要害には三尺の鉄椎を隠してあり、馬の蹄が踏めばたちまち貫かれる。刺客も林のようにいて、夜に営幕を渡り歩くこと猿のようだ」。館伴は顔色を変え、「惜しいことだ。今はみな無用に置かれるわけか」と言った。理由を問うと、善は「和議が成れば親しみ合って兄弟のようになる。これらを何に使おうか」と答え、持参した品を与えた。その人は喜んですべて額森に語った。
- 翌日、額森に謁して大いに贈り物をしたので、額森も喜んだ。善はそこで詰め寄った、「太上皇帝の朝、太師が遣わす貢使は必ず三千人、年ごとに重ねての賜与で金幣が道に満ちるほどであった。それなのに盟に背いて攻めたのはなぜか」。額森は「我が馬の値を削り、与える帛は多く裂かれており、前後の使人は行って多くが帰らず、また歳賜を減らしたからだ」と答えた。
- 善は答えた、「削ったのではない。太師の馬は年々値が増して続けがたく、しかも拒むに忍びないので少し減じたのだ。太師は自ら値を以前と比べてどちらが多いか考えられよ。帛が裂かれたのは通事の仕業で、露見して誅された。太師の貢馬に劣ったものがあり貂に傷んだものがあったとしても、それも太師の意ではあるまい。また使者は多いときは三、四千人に至り、中には盗みを働く者や他の法を犯す者があって、帰れば罪を得ると恐れて自ら逃げただけだ。留めて何になろう。貢使は宴と賜与を受けるとき名を届け出るが、実際の人数より多く申告することがある。朝廷は実数を調べて与えるので、減らしたのは虚数であって、実在する者は減らしていない」。額森はたびたび「善し」と称えた。
- 善はさらに言った、「太師は再び我を攻めて数十万を屠戮したが、太師の部下の死傷も少なくない。上天は生を好み、太師は殺を好むので、たびたび霜の警めがある。今、上皇を還して和好を元のようにすれば、中国の金幣は日々至り、両国ともに楽しむ。美しいことではないか」。
- 額森が「敕書にどうして奉迎の語がないのか」と問うと、善は「これは太師の名誉を成らせるため、太師自らのこととさせるのだ。もし敕書に載せれば、太師は朝命に迫られたのであって、太師の誠心ではなくなる」と答えた。額森は大いに喜び、「上皇が帰れば再び天子になれるのか」と問うた。善は「天位はすでに定まっており、再び移すのは難しい」と答えた。額森が「堯・舜はどうであったか」と言うと、善は「堯は舜に譲った。今は兄が弟に譲ったのだ。まさに同じことだ」と答えた。
- その平章の昻克が、なぜ重宝を持って買い戻しに来ないのかと問うた。善は「もし財貨を持って来れば、人は太師が利を図ったと言うだろう。今そうしないからこそ、太師の仁義が現れ、立派な男子として史策に伝わり万世に頌えられるのだ」と答え、額森は笑って「善し」と称えた。
- 知院の巴延特穆爾は、使臣を留めたうえで使を遣わして上皇の復位を要求するよう額森に勧めたが、額森は信を失うことを恐れて聴かず、ついに善が上皇を奉じて還ることを許した。
復辟の功と評価
- 当時、朝廷はこぞって善の功を非凡としたが、景帝は当初の派遣の趣旨と異なるとして賞を薄くし、左都御史に遷して、なお鴻臚の事を□(底本欠字)させた。
- 二年、廷臣が元旦の朝儀を終えて朝房で賀を交わそうとしたとき、善はまた「上皇が賀をお受けにならないのに、我らはどうして互いに賀するのか」と言った。三年(1452年)正月、太子太保を加えられた。六年、衰老を理由に致仕を乞うたが、優詔して許されなかった。
- 善は容貌が堂々として応対が機敏であったが、学問がなく、おどけて客に対して真面目な話が少なかった。京師に居を構え、城外に邸を設け、園に良い果樹が多く、季節ごとに公卿・外戚・中貴に贈って歓心を得ないことがなかった。王振が権を握ったときは媚びて仕え、ここに至ってはまた石亨・曹吉祥と結んだ。
- 天順元年(1457年)正月、亨と吉祥が上皇を奉じて復辟すると、善は謀に加わったことにより、奉天翊衛推誠宣力武臣・特進光禄大夫・柱國・興濟伯に封ぜられ、歳禄千二百石、世券を賜り、左軍都督府の事を掌った。尚書の胡濙が善の迎駕の功を称えたので、礼部尚書を兼ねさせ、まもなく守正文臣に改めた。
- 善は衛拉持に使いしたとき四人の子を連れて行き、ここに至ってみな官を得た。さらに甥や養子で恩を乞うて官を得た者が十数人。気勢は盛んで、権をほしいままにし賄を受けた。亨らはこれを嫉んで離間したので、次第に疎んじられた。二年(1458年)五月に卒し、興濟侯を贈り忠敏と諡した。
- 善は弁舌の才を恃んで巧みに功名を取ったが、狡猾で嫉み深く、士人の議論から見捨てられた。序班であったころ事に連座して庶吉士の章樸とともに獄に繋がれ、久しくして親しくなった。ちょうど方孝孺の一党を厳しく追及していたとき、樸が家に孝孺の文集があってまだ焼いていないと言った。善は借りて見せてもらったうえで密告し、樸はこれによって誅死し、善は官に復した。于謙・王文の誅殺、陳循の流謫にも善は力があった。
- 子の宗が爵を襲いだが、後に奪門の功が取り消されて金吾指揮使に降された。孫の増は公主を娶った。
李實
- 李實は字を孟誠、合州の人。正統七年(1442年)の進士。人となりは思うままで拘りがなく、弁舌に長けた。景泰の初め、礼科給事中。額森が旺扎勒・托歡に和議を申し出させたので、實は自ら行くことを請い、礼部右侍郎に抜擢されて赴いた。少卿の羅綺が副使であった。
- 到着して上皇に会い、かなり額森の意向をつかんだ。帰って、額森は和を請うており他意はないと報告した。楊善が赴くに及んで上皇は果たして還った。この年十月、右都御史に進んで湖廣を巡撫した。五年、召還されて院務を掌った。
- 初め實は使いして上皇に謁したとき、京に還ることを請いつつ咎を引いて自ら責めたので、上皇の意に背いた。後に郷里にあって横暴であったため、斥けられて庶民とされた。
趙榮
- 趙榮は字を孟仁。その先は西域の人で、元のとき中国に入り閩縣に住んだ。舅の薩琦が翰林に仕えたので従って都に入り、書に長けていたので中書舎人を授かった。
- 正統十四年(1449年)十月、額森が上皇を擁して大同に至ったとき、知府の霍瑄が謁見して慟哭して帰った。額森は遂に京師を犯し、上皇を奉じて土城に登り、大臣に出迎えを求めた。榮は慨然として行くことを請い、大学士の高榖はその背を撫でて「君は忠義の人だ」と言い、佩びていた犀の帯を解いて贈った。ただちに大理寺少卿に抜擢して鴻臚卿を充て、右通政の王復とともに城を出て朝見し、羊酒や諸品を進めた。額森は大臣でないとしてこれを還し、于謙・石亨・王直・胡濙が出て来ることを求めたが、景帝は遣わさなかった。榮は太常少卿に改まり、なお内閣に仕えた。
- 景泰元年(1450年)七月、工部右侍郎に抜擢され、楊善らとともに赴いた。敕書に奉迎の語がなく、善は弁舌に長け、榮はこれを助け、ついに上皇を奉じて帰った。左侍郎に進む。
- 行人の王宴が沁河を開いて漕運を通じることを請い、再度廷議に下されて不便とされたので、榮を遣わして実地調査させたが、還ってやはり不便と言った。まもなく敕を奉じて山東・河南の三司とともに河道を検分した。衆は榮が科挙出身でないので侮り、榮は怒って多くを打ち辱めた。また自ら衣を掲げて水の深浅を測った。三司はそれぞれ章を上げ、榮が単騎で駆け回って軍民を驚かせ、県官を杖で傷つけ、官倉の米を売って代価を多く取ったと言った。撫按の薛希璉・張琛もこれを報告した。章は治河僉都御史の徐有貞に下されて調査させ、法司は「榮は大体を失ったとはいえ、結局は国事に急であったためである。米を売ったのは従者の仕業である。諸臣が大臣を侮り敕旨に逆らったのは逮捕して裁くべきで、希璉・琛も罪すべきである」と言った。帝は按臣に諸臣の供述を取らせたうえで宥した。
- 天順元年(1457年)、尚書に進む。曹欽が反したとき、榮は馬に鞭打って市中で大声を上げた、「曹賊が逆をなした。壮士は我とともに罪を討て」。果たして来る者があり、ただちに率いて赴いた。賊が平らぐと、英宗は李賢と語って榮の忠を歎じ、大理寺卿を兼ねさせてその俸を食ませた。七年、病により罷めた。成化十一年(1475年)に卒し、制のとおり恤を賜った。
霍瑄
- 霍瑄は字を廷璧、鳳翔の人。郷挙から国学に入り、大同通判を授かった。正統十二年(1447年)、武進伯朱冕の推薦により、そのまま知府に抜擢された。
- 額森が英宗を擁して城下に至ったとき、瑄は理餉侍郎の沈固らとともに出て謁し、馬に叩頭して号泣した。周りの者が刃を抜いて叱ったが動じなかった。上皇が城内の金帛を集めるよう命じると、瑄はあるものをことごとく献じた。上皇は感嘆した。
- 寇はしばしば大同・渾源に出没して軍民の樵採をうかがっては駆り立て掠め、運よく脱れて帰った者も大かたは手足を損なっていた。生き残った民はそろって城に入ったが住む所がなく、また食に乏しかった。瑄はいずれについても奏し、老弱は暫く移すことを許し、粟を出して救い、留めて城を守る壮丁は賦役を免じた。任期が満ちて転任すべきところ、鎮守・巡撫の諸臣が留任を乞い、詔して山西参政をも加えたうえでなお府の事を治めさせた。
- 英宗が復位すると、瑄を召して工部右侍郎に拝し、固もまた石亨の推薦で起用されて戸部尚書となった。まもなく巡撫が瑄の治績を上申し、誥を賜って表彰された。
- 初め瑄が大同にいたとき、巡撫の年富が逮捕され、瑄はその家に費用を与えて郷里に帰らせた。そのため鎮守太監の韋力転に憎まれて十数回打たれた。ここに至って瑄はこれを報告し、かつ力転が宴のたびに妓楽を用い、衣服・調度が王者のように僭上で、部民の女を強いて妾にしていると言った。力転もまた瑄の違法を暴いた。帝は双方とも不問にした。その年、左侍郎に転じて二品の服を賜った。成化の初め、たびたび言官に弾劾され、致仕を命ぜられ、京師で卒した。
- 瑄は初め郡を治めて声望があったが、晩年は身を慎まなかった。ただ艱難のときに天子に知られたので、久しく高位に列した。
沈固
- 沈固は丹陽の人。永樂年間に郷挙から身を起こし、官を積んで尚書に至った。石亨が失脚すると引退して去った。