明史卷一百七十一 列傳第五十九 徐有貞

出自と南遷の主張

  • 徐有貞は字を元玉、初めの名は珵、吳の人。宣徳八年(1433年)の進士で庶吉士に選ばれ編修を授かった。人となりは小柄ながら精悍で、知略に富み功名を好んだ。天文・地理・兵法・水利・陰陽・方術の書はどれも通じていた。
  • 当時は太平が久しく続いて辺備は緩み、西南の用兵は絶えず、珵はこれを憂えた。正統七年(1442年)、兵政に関する五事を上疏し、帝は善しとしたが用いることができなかった。十二年(1447年)、侍講に進む。
  • 十四年(1449年)秋、熒惑(火星)が南斗に入った。珵はひそかに友人の劉溥に「禍は遠くない」と語り、急いで妻子を南に帰した。土木の難が起こって郕王が廷臣を召して計を問うと、珵は大言した、「星象に照らし暦数に考えるに、天命はすでに去りました。ただ南遷のみが難を緩めることができます」。太監の金英はこれを叱り、胡濙・陳循もみな不可と主張し、兵部侍郎の于謙は「南遷を言う者は斬ってよい」と言った。珵は大いに気を挫かれ、再び言うことができなかった。
  • 景帝が即位すると、科道官十五人を外に遣わして兵を募らせ、珵は監察御史の職務を代行して彰徳に赴いた。寇が退くと召還され、官は元のままであった。

改名と陳循への接近

  • 珵は出世を焦っていたが、自ら南遷の議を唱えたために内廷の嘲笑の的となり、久しく昇進できなかった。そこで陳循に玉帯を贈り、星術にかこつけて「公の帯はやがて玉になりましょう」と言った。まもなく循は果たして少保を加えられ、大いに喜んでたびたび彼を推薦した。
  • しかし当時の人事の多くは少保の于謙が決していた。珵は謙の門下の士に頼んで働きかけ、国子祭酒の職を求めた。謙は帝に取り次いだが、帝は「これは南遷を唱えた徐珵か。人となりが危うく、諸生の心得を損なうであろう」と言った。珵は謙が推薦してくれたことを知らず、自分を妨げたと思って深く謙を怨んだ。循が改名を勧め、そこで有真と名づけた。

沙湾の治水

  • 景泰三年(1452年)、右諭徳に遷った。黄河が沙湾で決壊してから七年、前後の担当者はいずれも成果がなかった。廷臣がそろって有真を挙げたので、左僉都御史に抜擢して治めさせた。
  • 張秋に至って水勢を観測し、三つの策を条を分けて上げた。一つは水門を置くこと、一つは支流を開くこと、一つは運河を浚うことである。議が定まったとき、督漕都御史の王竑が、漕運の水路が土砂で浅くなって運搬船が滞るとして、急いで決壊口を塞ぐことを請うた。帝は有貞に竑の議のとおりにせよと敕したが、有貞は現地の判断を守って言った、「臨清の河が浅いのは昔からのことで、決壊口が塞がっていないためではない。漕臣はただ決壊口を塞ぐことを急務と考えるだけで、秋冬に塞いでも来春には必ずまた決壊し、徒労に終わることを知らない。臣は目先の功を求めるわけにはいかない」。詔してその言に従った。
  • 有貞はそこで民夫を大いに集め、自ら督励して水路を開き閘を建て、張秋を起点として黄河・沁河に接続させた。河流のうち脇へ逸れて流れの順わないものには九つの堰を築いて遮り、さらに大堰を築いて水門で扼した。五百五十五日を費やして工事が完成し、その渠を広済、閘を通源と名づけた。
  • 工事の完成前、帝が漕運を急務としたので、工部尚書の江淵らが中書を遣わして文武大臣とともに京軍五万人を督して助役に赴かせ、三か月で完成させることを請うた。有貞は言った、「京軍がひとたび出れば日々の費用は計り知れない。増水に遭えば手をこまぬいて見ているほかなく力の施しようがない。今は排水口はすでに合わさり決壊した堤はすでに固い。沿河の民夫だけで事は成る」。この議は沙汰やみとなった。
  • 事が終わって召還され、院務を補佐した。帝は厚く労った。再び出て漕河を巡視した。済寧の十三州県の河夫は官馬その他の雑役を多く負担しており、担当官が厳しく督促していたので、有貞は言上して免除させた。
  • 七年(1456年)秋、山東で大水があって河堤の多くが壊れたが、有貞の築いた所だけは元のままであった。有貞は旧堤の決壊口を修め、臨清から済寧に至るまで各所に減水閘を置き、水害はことごとく収まった。朝に還ると帝は召見して格別に労い、左副都御史に進めた。

奪門の変

  • 八年(1457年)正月、景帝が病に倒れた。石亨・張軏らが上皇を迎えることを謀り、太常卿の許彬に告げた。彬は「これは不世出の功だ。私は老いて役に立たぬ。徐元玉は奇策に長ける。ともに図られよ」と言った。亨はその夜のうちに有貞の家に至り、これを聞いて大いに喜び、「南城にこの意を知らせねばならぬ」と言った。軏は「すでにひそかに伝えてある」と言い、太監の曹吉祥に太后へ申し上げさせた。
  • 辛巳の夜、一同はまた有貞の所に集まった。有貞は屋根に上って天象を眺め、急いで下りて「時が来た。逃すな」と言った。折しも辺境の警報があったので、有貞は軏に非常時の備えと偽らせて兵を率いて大内に入らせた。亨が門の鍵を掌っていたので、夜四鼓に長安門を開いて入れ、入り終わると閉じて外の兵を遮った。
  • このとき空は暗く、亨も軏も惑って有貞に「事は成るだろうか」と問うた。有貞は「必ず成る」と大言して急がせた。南城門に迫ると錠が下りていたので、牆を毀って入った。上皇は灯の下から独り出て来て事情を尋ねた。有貞らは伏して即位を請い、輿を進めるよう呼んだ。兵士は恐れて担ぎ上げられず、有貞が一同を率いて挽くのを助けて進んだ。星と月が急に明るく開けた。上皇は一人ひとりに姓名を尋ねた。東華門に至ると門番が拒んで入れなかったが、上皇が「朕は太上皇帝である」と言うと、門番は退いて走り去った。
  • そこで奉天門に登り、有貞らは常服のまま謁して賀し、万歳を呼んだ。景帝が翌朝に朝政を視ることになっており、群臣はみな闕下で刻限を待っていたが、突然殿中の騒ぎ声を聞いて驚いた。まもなく諸門がことごとく開き、有貞が出て衆に告げた、「太上皇帝が復位された。急ぎ入って賀せ」。
  • 即日、有貞に学士を兼ねさせて内閣に入り機務に参預させ、翌日に兵部尚書を加えた。有貞は亨に「側注の冠をいただいて兄の後に従いたい」と言い、亨が帝に取り次いで、武功伯に封じ華蓋殿大学士を兼ねて文淵閣の事を掌らせ、奉天翊衛推誠宣力守正文臣の号を賜い、禄千百石、代々錦衣指揮使とし、誥券を給した。
  • 有貞はそこで少保の于謙、大学士の王文を誣告して殺した。内閣の諸臣は追い払われてほぼ尽き、陳循は日ごろ有貞に恩があったのに、これも救わなかった。事の権はことごとく有貞に帰し、内外はみな横目に見たが、有貞はますます振る舞いを伸ばし、時を選ばず参内し、帝もまた心を傾けて委任した。

曹石との相剋と失脚

  • 有貞は志を得ると、曹吉祥・石亨とは自分は違うのだと示そうと考え、帝が二人に対して厭う色を隠せないのを見て取り、少しずつ彼らを抑え、かつそれとなくその貪欲・横暴のさまを言った。帝も心を動かされた。御史の楊瑄が亨と吉祥が民田を侵し占めていると弾劾し、帝が有貞および李賢に問うと、いずれも瑄の奏のとおりだと答えたので、瑄を褒める詔が下った。亨と吉祥は大いに怨み、日夜有貞を陥れる謀をめぐらした。
  • 帝は有貞を厚遇し、しばしば人払いして密談していた。吉祥は小者に立ち聞きさせてこれを知り、わざと帝に洩らした。帝が驚いて「どこでこの話を聞いたのか」と問うと、「有貞から聞きました。某日に某事を語られたことは、外では知らぬ者がありません」と答えた。帝はこれ以後、有貞を疎んじた。
  • 御史の張鵬らが亨の他の罪を糾弾しようとし、まだ上奏しないうちに給事中の王鉉がこれを洩らした。亨と吉祥の二人は帝に泣いて訴え、内閣が実は主導していると言った。そこで諸御史を獄に下し、あわせて有貞および李賢を捕らえて繋いだ。にわかに雷と雹が交々起こり、大風が木を折った。帝は感じるところがあったが、亨の意に重ねて背くこともできず、有貞を釈して広東参政として外に出した。
  • 亨らの恨みはやまず、必ず殺そうとして、人に匿名の書を投じさせて天子を指弾する内容とし、有貞が怨望してその食客の馬士權に書かせたものだと言った。そこで有貞を徳州で追捕し、士權とともに詔獄に下したが、拷問しても証拠は出なかった。承天門が焼けて大赦があったので、亨と吉祥は有貞が釈されることを恐れ、帝に言った、「有貞は自ら武功伯の券辞を撰して『禹の成功を纘ぐ』と書き、また自ら封邑を武功に選んだ。禹は禅譲を受けて帝となり、武功は曹操が初めて封ぜられた地である。有貞には望むべからざるものを図る志がある」。帝はこれを法司に示し、刑部侍郎の劉廣衡らは棄市に当たると奏したが、詔して金歯に移して民とした。
  • 亨が失脚すると、帝は落ち着いて李賢・王翺に言った、「徐有貞に何の大罪があろう。石亨らに陥れられただけだ。釈して郷里に帰らせよ」。成化の初め、冠帯を復して閒住とされた。
  • 有貞は釈されて帰った後も帝が再び召すことを期待し、常に天象を仰ぎ見て「将星が吳にある」と言い、いよいよ自負した。常に鉄の鞭を身から離さず、しばしば立って舞った。韓雍が両廣を征して功があったと聞くと、鞭を投げ捨てて嘆息し「小僧もまた天象に応ずるのか」と言い、そのまま山水の間に放浪すること十余年で卒した。
  • 有貞が初めて出獄したとき、士權の背を撫でて「君は義士だ。他日、娘を一人託そう」と言った。しかし金歯から帰った後、士權が時々訪ねても婚事には全く触れなかった。士權は辞去し、終生このことを口にしなかった。人はこれによって有貞を軽んじ、士權を重んじた。