明史卷一百七十一 列傳第五十九 王驥

出自と初期の経歴

  • 王驥は字を尚徳、束鹿の人。長身で体格がよく騎射に長け、剛毅で胆があり、軍事の方策に通じていた。
  • 永樂四年(1406年)の進士。兵科給事中となり、山西に使いして塩池の未納の課税二十余万を免ずるよう奏した。まもなく山西按察司副使に遷る。洪熙元年(1425年)、入って順天府尹。宣徳の初め、兵部右侍郎に抜擢され、顧佐に代わって都察院を署理した。久しくして兵部尚書を署理し、宣徳九年(1434年)に正式の任命を受けた。
  • 正統元年(1436年)、詔を奉じて辺事を議したが、五日経っても奏上しなかったので、帝は怒って驥と侍郎の鄺埜を捕らえて獄に下し、まもなく釈放した。

辺務の整理と塞外遠征

  • 阿勒台・多爾濟巴勒がしばしば甘州・涼州を侵し、辺将は繰り返し敗れた。侍郎の柴車・徐晞、御史の曹翼が相次いで辺務を処理したが抑えられなかった。正統二年(1437年)五月、驥を派遣し、便宜のはからいを許した。
  • 驥は馳せて軍に至り、諸将を大いに集めて、先に魚兒海子で敵を追ったとき真っ先に退いて軍を敗らせた者は誰かと問うた。皆が「都指揮の安敬」と答えた。驥はあらかじめ密旨で敬を誅すべしと承けていたので、敬を縛って轅門で斬り、あわせて敕を読み上げて都督の蔣貴を責めた。諸将はみな脚を震わせた。
  • 驥は将士を大閲兵し、兵を分け守備区を画してそれぞれ防禦させ、辺境は粛然とした。甘州・涼州で閲兵して三分の一を淘汰し、交代の法を定め、兵は休息を得、輸送の負担も減った。
  • まもなく阿勒台がまた侵入した。帝は任禮を平羌将軍、蔣貴・趙安を副将とし、驥が軍を督した。三年(1438年)春、諸将とともに塞を出て、貴を前鋒とし、自らは任禮と大軍を率いて後に続き、貴と「勝たなければ顔を合わせぬ」と約した。
  • 貴は石城で敵を撃ち、敵は烏拉に走った。貴は軽騎二千五百人を率いて鎮夷を出、間道を三日三夜兼行して追いつき、左丞の托囉を捕らえ、斬首三百余、金銀の印各一つ、駝馬・兵甲を千を数えるほど獲た。
  • 驥と禮は梧桐林から額齊訥に至り、檢密・同知・僉院十五人、萬戸二人を捕らえてその部落を降し、追い詰めて黒泉に至った。趙安らは昌寧を出て多喇溝に至り、右丞・逹嚕噶齊三十人を捕らえた。道を分けて挟み撃ちにし、転戦すること千余里、多爾濟巴勒は遠くへ逃げた。
  • 論功で貴・禮はいずれも伯に封ぜられ、驥は大理卿を兼ねて二俸を支給された。まもなく召還されて部務に戻った。

麓川第一次征討

  • やがて麓川の役が起こった。麓川宣慰使の思任發が叛いて何度も王師を破った。黔國公沐晟が討ったが利あらず、道中で死んだ。沐昂が代わり、攻略の策を条を分けて上げ、兵十二万人の徴発を求めた。中官の王振が権を握り功名を好んで、驥に託して大挙することを考え、驥もまた力を尽くそうとした。
  • 正統六年(1441年)正月、蔣貴を平蠻将軍、李安・劉聚を副将とし、驥が軍務を総督して、東南諸道の兵十五万を大挙徴発して討たせた。刑部侍郎の何文淵、侍講の劉球が相次いで上疏して諫めたが容れられなかった。出発に臨んで驥と貴に金の兜鍪・細鎧・蟒繡の緋衣・朱塗りの弓矢を賜った。驥は便宜のはからいを請い、駅伝で雲南に至って諸将を配置し、参将の冉保を東路から孟定へ向かわせ、大軍は中路から騰衝に至り、道を分けて挟撃した。
  • この年十一月、貴と二万人で上江に進み、その寨を囲むこと五日で落ちなかった。大風に乗じて火を放ち柵を焼いて抜き、斬首五万余級。夾象石から下江を渡って進み、高黎貢山への道を通じた。閏月に騰衝に至り、長駆して杉木籠山に迫った。賊は高所に乗じ険に拠って七つの塁を築き互いに救い合っていた。驥は参将の宮聚・副将の劉聚を左右の翼に分けて尾根伝いに上らせ、自らは中軍を率いて奮撃し、賊は大いに潰えた。
  • 勝ちに乗じて馬鞍山に至り、月を越えて賊の本拠に迫った。山は切り立ち深い塹が取り巻き、東南面は江が壁のように立って登れなかった。驥は前軍を出して賊を偵察させ、その伏兵を破った。賊はさらに間道から馬鞍山に柵を立て、大軍の背後に出た。驥は軍中に動くなと戒め、都指揮の方瑛に六千人で賊の寨を突かせて斬首数百、また誘い出してその象の陣を破った。
  • 東路軍の冉保らはすでに水邦・車里・大候の諸土軍と合流し、烏木弄・戞邦の諸寨を破り、別将を遣わして西峩渡を守らせて賊の脱出を防ぎ、期日を定めて大軍と合した。驥は諸将を督してその七つの門を囲んで攻め、薪を積んで火を放った。大風が起こり、賊の焼死する者は数知れず、江に溺れ死んだ者は数万人にのぼった。
  • 思任發は二子を連れて孟養に逃げた。その虎符・金牌・宣慰司の印および掠奪されていた騰衝諸衛所の印章三十余を獲、その巣穴を掘り返し、兵を留めて守らせて還った。
  • 翌年四月、別動隊を遣わして維摩土司の韋郎羅を討たせた。郎羅は安南に走ったので、その妻子を捕らえ、安南に檄を伝えて縛って差し出させた。五月に軍が還ると、帝は戸部侍郎の王質を遣わして羊と酒を持たせて出迎え労い、奉天門で宴を賜った。推誠宣力武臣・特進榮禄大夫・上柱國・靖遠伯に封じ、歳禄千二百石、世襲の指揮同知を与え、貂蟬冠と玉帯を賜った。貴は侯に進み、劉聚らも昇進と賞に差をつけて与えられた。従征した少卿の李蕡、郎中の侯璡・楊寧はみな侍郎に抜擢され、士卒への賜与も等級を加えた。府庫はこれで空になった。

第二次征討と辺防の更番法

  • 思任發が緬甸に逃げ込むと、その子の思機發が残衆を率いて者藍に居り、入朝して謝罪したいと願い出た。廷議はこれを機に懐柔しようとしたが、王振は認めなかった。この年八月、また驥に雲南軍務を総督させ、参将の冉保・毛福夀を率いて赴かせた。まだ到着しないうちに、思機發は弟の招寨を遣わして入貢し、緬甸もまた思任發を捕らえたとして麓川の地を要求すると奏した。朝廷はその貢を受けず、かつ驥に敕して緬甸を討つよう命じた。驥はそこで援兵を請うた。
  • 八年(1443年)五月、また蔣貴を平蠻将軍として土兵五万を動員して赴かせ、兵糧輸送に卒を発すること五十万人。驥は当初、緬甸に檄して思任發を引き渡させようとしたが、緬人は表向き命に従いつつ二股をかけた。この年の冬、大軍が緬甸に迫ると、緬人は楼船に思任發を乗せて官軍の様子をうかがい、ひそかに別の舟で連れ帰った。驥は、緬人が木邦の水利を頼りとして唇歯の間柄であり、また思機發が父を差し出してその仇を報いることを恐れているため、ついに思任發を渡さないのだと見抜いた。そこで驥は者藍に進んで思機發の本拠を破り、その妻子と部落を得たが、思機發だけは逃げ去った。
  • 翌年召還され、禄三百石を加えられ、都御史の陳鎰とともに延綏・寧夏・甘肅の諸辺を巡撫するよう命ぜられた。
  • もともと寧夏の辺防軍は半年ごとの交代であったが、辺事が急になって三年交代となり、軍士は日を重ねて疲弊し、さらに軍余まで選んで冬の防備に充てたので、一家で五、六人が辺境にいる者もあり、軍役の負担は極めて重かった。驥は年に一度の交代とし、交代要員は十月に到着し、交代される側は翌年正月まで留まってから帰す方式を請うた。辺備は足りて軍は疲れない。帝はこの議を善しとして諸辺で行わせた。

第三次征討と詹英の弾劾

  • このころ緬人はすでに思任發を差し出していたが、思機發はひそかに孟養の地に駐まり、たびたび使を遣わして入貢し謝罪した。朝廷の内外はみな罷兵を願ったが、振の意はついに満たされず、思機發が自ら入朝して謝罪することを要求した。沐斌が軍を率いて金沙江に至って招いたが来ず、孟養に命じて捕らえて差し出させようとしたがそれも従わなかった。そこで振は怒り、その種族を滅ぼし尽くそうとした。
  • 十三年(1448年)春、また驥に軍務を総督させ、宮聚を平蠻将軍として十五万人の軍を率いて赴かせた。翌年、舟を造って金沙江に浮かべた。蛮人は西岸に柵を設けて拒み守ったが、官軍は舟を連ねて浮橋として渡り、その柵を抜き、進んで鬼哭山を破り、続けて十余の寨を落とし、墜落・溺死する者は数知れなかった。しかし思機發はついに逃れて捕らえられなかった。
  • このとき官軍は孟養を越えて孟那の地に至った。金沙江の西にあって麓川から千里、古来兵力の及んだことのない所である。諸蛮は大軍を見てみな震え恐れたが、大軍は遠く渉って来ていたので、驥は兵糧が続かないことを慮り、急ぎ引き揚げることを図った。
  • 当時、思機發は逃げ隠れていたが、思任發の末子の思陸がまた衆を擁して孟養に拠った。驥は賊を滅ぼし尽くすことはできないと見て、思陸と約して金沙江のほとりに石を立てて誓い、「石が爛れ江が枯れたら、そのときこそ渡ってよい」と言って、そのまま軍を還した。
  • 驥は前後三度麓川を征したが、ついに思機發を得られなかった。議者は、驥らが軍を疲れさせ財を費やし、一隅のために天下を騒がせたと咎めた。
  • 会川衛訓導の詹英が上疏して弾劾した。その大略はこうである。驥らは多くの民夫を使役して綵繒を担がせ、諸土司に配って厚い利を求めた。ほしいままに腐刑(宮刑)を用い、宮中に献ずると偽って実は私用に使った。行軍に規律がなく、十五万人が一日に出発して互いに踏みつけ合い、兵一人ごとに米六斗を背負って山谷を渉り、首を吊る者が多かった。金沙江に着いてもうろうろして渡ろうとせず、渡ってからも攻めようとせず、攻めては都指揮の路宣・翟亨らを失った。賊が引き揚げるのを待って漁戸を多く捕らえて俘虜とし、土地を木邦と緬甸に分け与えて敗北を覆い隠して功とした。これは李宓の敗北を楊国忠が勝利として報告したのと何が違うのか。
  • 奏は法司に下されたが、王振がかばったので不問となり、英を驥の軍に従わせて功を立てさせよと命じた。英は行けば罪を得ると知って身を隠して行かなかった。

苗の乱と晩年

  • このころ湖廣・貴州の諸苗が至る所で蜂起し、平赴および諸城堡を囲み、貴州の東路は塞がった。驥が武昌まで来たとき、詔して軍を還して苗を討たせた。英宗の北狩に遭い、群臣は王振を弾劾してあわせて驥にも及んだが、驥は軍中にあり、また苗の平定を頼んでいたので不問に付し、平蠻将軍の印を佩びさせて総兵官とし、侍郎の侯璡が軍務を総督した。
  • やがて苗はますます勢いを増して十余万に達し、平越は半年囲まれた。巡按御史の黄鎬は死守し、糧が尽きて草の根を掘って食べたが、驥は辰州・沅州に軍を留めて進まなかった。景秦元年、鎬は疏を草して竹筒に入れ、人を募って間道から出させ朝廷に届けた。改めて保定伯の梁珤を平蠻将軍とし、兵二万人を増し、侯璡が雲南から督して先に進んで激しく戦い、大いに賊を破って諸城の囲みをことごとく解いた。驥もまた剗平王の蟲富らを捕らえて献じた。
  • 驥は還って南京の機務を総督するよう命ぜられ、その冬に世券を乞うて与えられた。南畿の軍は普段からだらけていたが、驥は自分が用いてきた軍法で鍛えた。于謙はこれを重んじなかったが、朝廷は旧臣として厚く礼遇した。三年(1452年)四月、敕を賜って任を解き、朝請を奉ずる身となった。驥は七十余歳で、なお馬を躍らせ肉を食い、歌舞妓を盛んにすることは以前のままであった。
  • 久しくして石亨・徐有貞らが英宗を奉じて復辟したとき、驥も謀に加わったが賞がやや後回しになった。上章して自ら訴え、「臣の子の祥は南城に入って諸将に押されて地に落ち、危うく死ぬところでした。今、論功が及ばないのは、これを覆い隠す者があるのではと疑います」と言った。帝は祥を指揮僉事とし、驥にはなお兵部尚書として部務を執らせ、奉天翊衛推誠宣力守正文臣・光禄大夫の号を加え、他は元のままとした。数か月で引退を願い、さらに三年して卒した。年八十三。靖遠侯を贈り、忠毅と諡した。
  • 爵は子の瑺、孫の添に伝えられた。添は嘉善長公主を娶った。さらに伝えられて孫の瑾に至る。

王瑾

  • 瑾は嘉靖の初め、三千営を提督し南京を協守した。還って左府を掌り、久しくして征蠻将軍の印を佩びて両廣を鎮した。
  • 廣東の新寧・新興・思平の一帯は高山と密林が多く、亡命者はそのつど猺の中に入り込んで官吏の手が及ばず、その衆は一万余人に達して高要・陽江の諸県を荒らし回り、官軍が討ってもそのたびに敗れていた。嘉靖二十五年(1546年)春、瑾は巡撫都御史の談愷と諸路の土兵に檄して首魁の陳以明を誅し、諸巣をことごとく平らげた。勝報が届いて太子太保を加えられた。
  • また扶藜・葵梅の諸山峝で馮天恩らが険に拠って寇をなすこと数十年に及んでいたが、瑾はさらに軍を督して道を分けて討伐し、二百余の巣を破り、功により子一人を錦衣百戸に廕せられた。言官がその横暴を弾劾して召還された。爵は明が亡ぶまで伝えられて絶えなかった。