明史卷一百七十 列傳第五十八 于謙(廷益)

錢塘の人、字は廷益(?–1457年)。永樂十九年の進士で、河南・山西巡撫として前後十九年にわたり荒政と辺備を整え、名声を得た。土木の変で英宗が捕らわれ京師が動揺すると、南遷論を斬るべしと退けて死守を決し、郕王を景帝に推して兵部尚書・総督軍務として北京防衛戦を指揮し、額森を撤退させた。その後も和議を退けて備えを固め、団営の制を創設し、上皇の帰還を実現させた。景帝の信任は厚かったが、剛直で権勢家の怨みを買った。奪門の変で英宗が復位すると石亨・徐有貞・曹吉祥らに謀逆を誣告されて刑死し、のち冤が晴れて官を復され、粛愍(のち忠粛)と諡された。

年表(13件)
  • 永樂十九年1421年進士に及第する
  • 宣徳六年1431年河南・山西の積穀を貧戸に貸し付ける荒政を上疏し、詔で施行される
  • 正統六年1441年王振の意を迎えた弾劾で投獄され、のち大理寺少卿に左遷される
  • 正統十三年1448年兵部左侍郎として京師に召される
  • 正統十四年1449年土木の変ののち南遷論を斥け、京師死守の議を定める
  • 1449年九月、郕王の即位を推し進め景帝が立つ
  • 1449年十月、各営の軍馬提督を命じられ、二十二万を九門の外に布陣させる
  • 1449年徳勝門に伏兵を置いて額森の弟博羅らを砲で討ち取る
  • 1449年額森が上皇を擁して西へ退き、功により少保・総督軍務を加えられる
  • 景秦九年正月万全を囲む敵に范廣を差し向け、大同参将許貴の講和論を檄で厳責する
  • 景㤗八年正月壬午1457年奪門の変で英宗が復位し、王文とともに捕らえられ謀逆を誣告される
  • 1457年丁亥の日に市に棄てられ、家は籍没、家族は辺境に流される
  • 弘治二年1489年特進光禄大夫・柱国を贈られ、粛愍と諡され墓に旌功の祠を賜る

于謙――出自と初出仕

  • 于謙は字を廷益といい、錢塘の人である。七歳のとき一人の僧が彼を見て奇とし、「この子は他日、時世を救う宰相になる」と言った。
  • 永樂十九年(1421年)の進士。宣徳の初めに御史を授けられた。奏対のときの声と言葉づかいが朗々と大きく、帝は身を傾けて聴き入った。都御史の顧佐は僚属に対してきわめて厳しかったが、謙にだけは腰を低くした。才が自分に勝ると見たからである。
  • 樂安への行幸に扈従したとき、髙煦が城を出て降った。帝は謙に口頭でその罪を数え上げよと命じた。謙の言葉は峻厳で声色も激しく、髙煦は地に伏して震え、「万死に値します」と称した。帝は大いに悦び、軍が還ると、謙への賞賜は諸大臣と同等であった。
  • 江西に按察に出て、冤罪の囚人数百人の罪をすすいだ。陝西の諸処で官校が民の害となっていることを疏で奏し、御史を遣わして捕らえよとの詔が下った。
  • 帝は謙が大任に堪えると見抜いた。ちょうど各部に右侍郎を増設して直省の巡撫に充てることになり、帝は自ら謙の名を書いて吏部に授け、序列を飛び越えて兵部右侍郎・河南山西巡撫とした。

于謙――河南・山西巡撫としての施政

  • 任地に着くと軽装の騎で管内をくまなく歴訪し、父老を訪ねて当面興すべきこと・改めるべきことを聴き取り、そのつど疏にして上申した。一年に数度に及び、小さな水害・旱害でもすぐに上聞した。
  • 宣徳六年(1431年)の上疏。いま河南・山西の積穀はそれぞれ数百万ある。毎年三月に府州県から食に欠ける下戸を報告させ、分に応じて支給する。まず菽と秫、次に黍と麥、次に稻の順とする。秋の収穫を待って官に返済させ、老人・病人および貧しくて返済できない者は免除する。州県の吏は任期が満ちて転任すべきときでも、予備の糧が不足していれば離任を許さない。風憲官に随時稽察させる、というもので、詔してこのとおり行わせた。
  • 河南の黄河に近い一帯はしばしば堤が切れたので、謙は堤防を厚く築かせ、里数を計って亭を置き、亭ごとに長を立てて修繕を督励させ、あわせて植樹と井戸掘りをさせた。楡と柳が道の両側に茂り、道行く者が渇きに苦しむことはなくなった。
  • 大同は塞外に孤立し、山西を按ずる者が足を運べないので、別に御史を設けて治めさせるよう奏した。鎮将が私に開墾していた田をことごとく取り上げて官の屯田とし、辺境の経費に充てた。恩恵と威信が行き渡り、太行山に潜む盗賊も姿を隠した。
  • 在官九年で左侍郎に遷り、二品の俸を食んだ。当初は三楊(楊士奇ら三楊)が政府にあって謙を厚く重んじ、謙の奏は朝に上がれば夕方には裁可の返答が来た。いずれも三楊が取りはからったものである。謙は議事のたびに手ぶらで京師に入ったので、権勢ある人々は恨みを抱かずにはいられなかった。

于謙――王振の専権と冤獄

  • 正統六年(1441年)に入朝したとき、太監王振が権を振るっていた。たまたま謙と姓名の似た御史がかつて振に逆らったことがあり、また謙が參政の王來・孫原貞を推薦して自分の後任に充てたいと上疏したのに乗じて、通政使の李錫が振の意を迎え、謙が長く昇進しないのを怨望し、擅に人を挙げて自分の代わりにしようとしたと弾劾した。法司に下されて死罪を論じられ、三か月投獄された。やがて振が人違いと知って釈放され、大理寺少卿に左遷された。
  • 山西・河南の吏民で宮門に伏して謙の留任を願い出た者は千人を数え、周王・晉王ら諸王もこれを言った。そこで改めて謙に巡撫を命じた。
  • 当時、山東・陝西の流民で河南に食を求めて来た者が二十余万人いた。謙は河南・懐慶二府の積穀を出して賑給することを請い、さらに布政司の年富にその人々を安んじ集めさせ、田を授け牛と種を給し、里老に監督させるよう奏した。前後の在任は十九年に及んだ。父母の喪に遭ったときはいずれも帰郷して喪に服させ、すぐに起復させた。

于謙――土木の変と京師死守の決定

  • 正統十三年(1448年)、兵部左侍郎として召された。翌年(正統十四年、1449年)の秋、額森が大挙して侵入し、王振が帝を擁して親征した。謙は尚書の鄺埜とともに極力諫めたが聴かれず、埜は従軍して兵を治め、謙は留まって部務を執った。
  • 帝の車駕が土木で陥落すると京師は大いに動揺し、人々はなすすべを知らなかった。郕王が監国となり、群臣に戦うか守るかを議させた。侍講の徐珵は「星象に異変がある。南に遷るべきだ」と言った。謙は声を励まして言った、「南遷を言う者は斬ってよい。京師は天下の根本であり、ひとたび動けば大事は去る。宋の南渡を見ないのか」。王はその言を是とし、守るという議が定まった。
  • 当時、京師の精鋭の甲騎はみな陥没し、残る疲弊した兵は十万に満たず、人心は震え上がって上下に定まった志がなかった。謙は王に願い出て檄を発し、両京と河南の備操軍、山東および南京沿海の備倭軍、江北および北京諸府の運糧軍を急ぎ京師に赴かせた。順を追って区画し部署を定めると、人心はやや落ち着いた。まもなく本部尚書に遷った。
  • 郕王が朝政を摂すると、廷臣は王振の一族誅殺を請うた。振の一党の馬順が言官を叱りつけたので、給事中の王竑が朝廷で順を打ち据え、衆がこれに続いて朝班は大混乱となり、衛卒の声が騒然となった。王は懼れて席を立とうとしたが、謙は人々をかき分けて前に進み、王を支えて引き止め、王に申し上げて「順らの罪はもとより死に当たる。追及するな」と宣諭させた。衆はようやく静まった。このとき謙の袍の袖はことごとく裂けていた。左掖門を退出すると、吏部尚書の王直が謙の手を執って歎じた、「国家はまさに公に頼るほかない。今日は王直が百人いても何ができようか」。
  • はじめ大臣たちは国に主がなく、太子は幼く、寇が迫っているのを憂え、皇太后に請うて郕王を立てようとした。王は驚いて再三辞退した。謙は声を張って「臣らはまことに国家を憂えるのであって、私事のためではありません」と言い、王はようやく命を受けた。九月、景帝が即位した(1449年)。

于謙――景帝擁立後の防衛体制

  • 謙は対面して慷慨し、涙ながらに奏した。「寇は志を得れば大駕を留め置こうと迫り、勢いとして必ず中国を軽んじ、長駆して南下するでしょう」。そのうえで次を求めた。諸辺の守臣に協力して防ぎ止めるよう申し渡すこと。京営の兵器がほぼ尽きているので、急ぎ道を分けて民兵を募り、工部に武具を修繕させること。都督の孫鏜・衛頴・張軏・張儀・雷通を遣わして兵を分け九門の要地を守らせ、郭外に営を列ね、都御史の楊善・給事中の王竑をこれに参与させること。城郭付近の住民を城内に移すこと。通州の積米は官軍が自ら出向いて支給を受け、余った米はその代価に充てて、敵の資となるよう捨て置かないこと。文臣は軒輗のような者を巡撫に、武臣は石亨・楊洪・柳漙のような者を将帥に用いること。軍旅のことは臣が一身に引き受け、成果がなければ臣を罰されたい。帝はこれを深く容れた。
  • 十月、謙に各営の軍馬を提督させる敕が下った。額森は上皇を擁して紫荊関を破り、まっすぐ侵入して京師をうかがった。石亨は兵を城内に収めて壁を固くし、敵を疲れさせようと主張したが、謙は認めず「どうして弱みを見せて敵にいっそう我を侮らせるのか」と言い、急ぎ諸将を分遣して二十二万の軍を九門の外に陣取らせた。
  • 都督陶瑾――安定門
  • 廣寜伯劉安――東直門
  • 武進伯朱瑛――朝陽門
  • 都督劉聚――西直門
  • 鎮逺侯顧興祖――阜成門
  • 都指揮李端――正陽門
  • 都督劉得新――崇文門
  • 都指揮湯節――宣武門
  • 謙自身は石亨とともに副総兵の范廣・武興を率い、徳勝門の外で額森に当たった。部務は侍郎の吳寕に託し、諸城門をことごとく閉じて自ら督戦した。「陣に臨んで、将が軍を顧みず先に退けばその将を斬る。軍が将を顧みず先に退けば後隊が前隊を斬る」と令したので、将士は死を覚悟して命に従った。
  • 副総兵の髙禮・毛福夀が彰義門の北で敵を退け、その長一人を捕らえた。帝は喜び、謙に精兵を選ばせて教場に駐屯させ、調用の便を図らせた。また太監の興安・李永昌に謙とともに軍務を執らせた。

于謙――北京防衛戦

  • はじめ額森は深く侵入し、京城は旦夕にも落とせると見ていたが、官軍が厳しく陣を敷いて待つのを見て意気がやや挫けた。裏切った宦官の喜寕がそそのかして、大臣に迎駕を求めさせ、金帛を万万の単位で要求させた。さらに謙および王直・胡濚らが出てきて交渉することを求めたが、帝は許さず、額森の気勢はますます衰えた。
  • 庚申の日、寇が徳勝門をうかがった。謙は亨に空き家に伏兵を置かせ、数騎を出して敵を誘わせた。敵は一万騎で迫ったが、副総兵の范廣が火器を放ち、伏兵が一斉に立って撃ちかかった。額森の弟の博羅と平章の茂諾海が砲に当たって死んだ。
  • 寇は転じて西直門に至り、都督の孫鏜がこれを防ぎ、亨も兵を分けて到着したので、寇は退いた。副総兵の武興は彰義門で寇を撃ち、都督の王敬とともにその前鋒をくじいた。寇が退こうとしたところ、内官の数百騎が功を争おうと馬を躍らせて先を競い、陣が乱れ、興は流れ矢に当たって死んだ。寇は追って土城に至った。住民が屋根に上って叫び、瓦や石を投げつけて寇を撃ち、その喚声は天を動かした。王竑と福夀の援軍が到着し、寇はようやく退いた。
  • 五日間対峙したが、額森は要求を容れられず、戦っても利がなく、ついに志を遂げられないと悟り、また勤王の軍が近づいていると聞いて帰路を断たれるのを恐れ、上皇を擁して良郷から西へ去った。謙は諸将を差し向けて追撃させ、関まで至って還った。
  • 功を論じて謙に少保・総督軍務を加えた。謙は「四方の郊外に敵の塁が並ぶのは卿大夫の恥である。どうして功賞を求めようか」と固辞したが許されなかった。そこで兵を増して真定・保定・涿州・易州の諸府州を守らせ、大臣を山西に鎮守させて寇の南侵に備えることを請うた。

于謙――和議を退け、上皇を迎える

  • 景秦九年正月、総兵の朱謙が、敵二万が万全を攻め囲んでいると奏した。范廣を総兵官に充ててこれを防がせる敕が下り、まもなく寇は退いた。謙は兵をそのまま居庸に駐め、寇が来れば関を出て討ち、退けば京師で兵糧を受けるようにすることを請うた。
  • 大同参将の許貴が、迤北から三人が鎮に来て、朝廷が使者を遣わして講和することを望んでいると奏した。謙は言った。「先に指揮の季鐸・岳謙を遣わしたが額森はそのまま侵入し、続いて通政の王復・少卿の趙榮を遣わしたが上皇に会えずに帰った。和が頼るに足りないのは明らかだ。まして我と彼とは不倶戴天であり、道理として和すべきではない。万一和して彼が際限のない要求をほしいままにすれば、従えば座して疲弊し、従わなければ変が生じる。勢いとしても和すことはできない。貴は甲冑を着る臣でありながらこれほど臆病では、何をもって敵に立ち向かうのか。法として誅に当たる」。檄を移して厳しく責めた。これ以後、辺将は誰もが戦守を主張し、和を口にする者はいなくなった。
  • はじめ額森の強要はすべて喜寕を謀主としていた。上皇は寕をだまして辺境に至らせ、密かに敕してこれを捕らえさせた。謙はまた王偉に計を授け、間者の小田兒を誅することを請い、あわせて諜を使って離間を図り、忠勇伯巴爾台の一家を釈放して封爵を約束し、ひそかに内応を図らせることを請うた。額森はようやく上皇を帰す気になり、使者を遣わして誼を通じてきた。京師の警戒はやや解かれた。
  • 謙は上言した。南京は重地であり、これを鎮撫する人材が要る。中原には流民が多く、凶作に遭えば徒党を組んで騒ぎ立てる恐れがある。内外の守備および各巡撫に敕して念入りに整備させ、未然に患いを防ぎ、内地に派遣していた召募の文武官および鎮守の中官を召還されたい。
  • 八月、上皇の北狩からすでに一年になっていた。額森は中国に付け入る隙がないと見て、いよいよ和を乞おうとし、使者が頻繁に来て上皇を帰すことを申し出た。大臣の王直らは使者を遣わして奉迎することを議した。帝は不快そうに「朕はもともと大位に登ることを望まなかった。あのとき推されたのは実は卿らのせいだ」と言った。謙は落ち着いて「天位はすでに定まっております。ほかにどうしましょうか。道理として速やかにお迎えするだけです。万一先方が偽りを抱いていても、こちらには言い分が立ちます」と答えた。帝は顔色を改め「汝に従おう、汝に従おう」と言った。前後して李實・楊善を遣わし、ついに上皇を奉じて帰した。謙の力である。
  • 上皇が帰ると、衛拉特はまた朝貢を請うた。これまで貢使は百人を超えなかったが、正統十三年には三千余人に達し、賞賜に満足せずついに侵入したのであった。今また使者三千人を遣わして来朝した。謙は兵を居庸関に並べて不測に備え、京師では兵を盛んに列ねたうえで宴を賜うことを請うた。

于謙――安辺三策と団営の創設

  • 謙は和議が頼みにならないことを述べ、辺境を安んじる三策を条を分けて上げた。大同・宣府・永平・山海・遼東の各路の総兵官に敕して守備を増修させること。京兵は五軍・神機・三千の諸営に分属し、それぞれ総兵はいるが統一されていないので、精鋭十五万を選んで十営に分け、まとめて調練させること。団営の制はここに始まる。詳細は兵志の中にある。
  • 衛拉特の入貢は、そのたびにかつて掠奪した人々を連れて来た。謙は必ず奏してその使者に代価を与え、前後で数百人を贖い返した。
  • 永樂年間に降人を近畿に多数配置していたが、額森の侵入のとき多くが内応した。謙はこれを分散させることを図り、西南で用兵があるたびにその精騎を選び、手厚く資を与えて出征させ、続いてその妻子も送り出したので、内患は止んだ。
  • 楊洪が独石から入って京師を守り、八城をすべて寇に委ねてしまったので、謙は都督の孫安に軽騎で龍門関に出て拠らせ、民を募って屯田させ、戦いながら守らせて、八城をついに回復した。
  • 貴州の苗がまだ平定されず、何文淵は二司(布政司・按察司)を廃して都司のみを置き、大将に鎮守させることを提議した。謙は「二司を置かないのはその地を棄てるに等しい」と言い、議は取りやめとなった。
  • 謙は、上皇は還ったものの国の恥はまだそそがれていないと考え、額森と托克托布哈が仲たがいしたのに乗じて、兵を発し自ら討ちに赴いて前の仇に報い辺境の患いを除くことを請うたが、帝は許さなかった。
  • 謙が兵部を預かっていた間、額森の勢いが盛んな一方で、福建の鄧荗七、浙江の葉宗留、広東の黄蕭飬がそれぞれ衆を擁して僭号し、湖廣・貴州・広西では猺・獞・苖・獠が至る所で蜂起した。前後の徴発・派遣はすべて謙が一人で切り回した。軍馬があわただしく、事変が一瞬のうちに起こる中で、謙は目で見、指を折り、口で章奏を組み立て、ことごとく機宜にかなった。僚吏は指示を受けて顔を見合わせ驚き服した。号令は明確で行き届き、勲臣や宿将であってもわずかでも軍律に外れれば旨を請うて厳しく責め、一片の紙が万里の外に行われて恐れ入らぬ者はなかった。その才略は明敏で、精神は隅々まで行き届き、当時並ぶ者がなかった。

于謙――人となりと景帝の信任

  • 生まれつきの性情は人並み外れ、国を憂えて身を忘れた。上皇が帰っても自分の功を口にしなかった。東宮が改められたのち、宮僚を兼ねる者に二俸を支給する命が出たが、諸臣がみな辞退する中、謙は独り二度まで辞退した。
  • 自らの暮らしは倹約で、住まいはやっと風雨をしのぐ程度であった。帝が西華門に邸を賜うと、「国家多難のとき、臣子がどうして自分だけ安んじられましょう」と辞した。固辞しても許されなかったので、前後に賜った璽書・袍・錠の類を取ってすべて封をし、年に一度の節目に点検するだけであった。
  • 帝は謙を深く理解し、その論奏に従わないことがなかった。かつて使者を真定・河間に遣わして野菜を採らせ、直沽で干し魚を作らせようとしたが、謙の一言ですぐ取りやめた。一人を任用するにも必ず密かに謙に尋ね、謙は実情をありのままに答え、何も隠さず嫌われることも避けなかった。そのため職務に堪えない者はみな謙を怨み、謙に及ばない用いられ方をした者もしばしば嫉んだ。

于謙――積もる怨みと弾劾

  • 寇が退いて間もなく、都御史の羅通は、謙が上げた功簿は薄く事実に反すると奏し、御史の顧□(底本欠字)は、謙の専権が過ぎるとして、六部の大事は内閣とともに奏行するよう請うた。謙は祖法を根拠にこれを退け、戸部尚書の金濂も上疏して争ったが、論難する者はやまず、諸御史が法文を厳しく引いて弾劾すること再三に及んだ。景帝が衆議を押し切って用いたおかげで、謙は思うところを尽くすことができた。
  • 謙の性はもともと剛直で、思うようにいかないことがあると胸を打って歎じ、「この一腔の熱血を、いったいどこに注げばよいのか」と言った。柔弱な大臣・勲旧・貴戚をかなり軽んじたので、憤る者はいよいよ増えた。また終始和議を主張しなかったため、上皇は実際にはそのおかげで帰ることができたのに、快く思っていなかった。
  • 徐珵は南遷を唱えて謙に斥けられたが、のちに名を有貞と改めて次第に登用され、常に謙に歯ぎしりしていた。石亨はもと軍律違反で職を削られたのを、謙が寛恕して用いることを請い、十営の総兵となった。亨は謙を畏れて思うにまかせず、謙を快く思わなかった。徳勝門の勝利では亨の功は謙に及ばないのに世襲の侯を得たので、内心恥じて謙の子の于冕を薦める疏を上げた。詔で京師に赴かせ、謙は辞退したが許されなかった。謙は言った、「国家多事のとき、臣子は道義として私恩を顧みるわけにいきません。しかも亨は大将の位にありながら、埋もれた一人を挙げ、行伍の卑賤な一人を抜擢して軍国を助けたとは聞きません。ひとり臣の子を薦めるのが公議にかなうでしょうか。臣は軍功について僥倖を封じることに努めており、決して子を用いて功を濫りにするようなことはいたしません」。亨はまた大いに怒った。
  • 都督の張軏は苗征討の軍律違反で謙に弾劾され、内侍の曹吉祥らとともに、もとより謙を恨んでいた。

于謙――奪門の変と刑死

  • 景㤗八年正月壬午(1457年)、亨と吉祥・有貞らが上皇を迎えて復位させ、朝臣への宣諭が終わるや、ただちに謙と大学士の王文を捕らえて獄に下し、謙らが黄□(底本欠字)と邪な議を構えて東宮を立て替えようとし、また太監の王誠・舒良・張永・王勤らと襄王の子を迎え立てることを謀ったと誣告した。亨らがその議を主導し、言官をそそのかして上奏させた。都御史の蕭惟禎が判決を定め、謀逆に当たるとして極刑に処した。文は誣告に耐えられず弁明したが、謙は笑って「亨らの意向にすぎない。弁明して何の益があろう」と言った。
  • 奏上されると英宗はなお躊躇し、「于謙には実に功がある」と言った。有貞が進み出て「于謙を殺さなければ、この挙は名分を失います」と言い、帝の意はついに決した。丙戌の日に天順と改元し、丁亥の日に謙は市に棄てられ、家は籍没され、家族は辺境に流された。
  • 遂溪教諭の吾豫は、謙の罪は一族に及ぶべきであり、謙が薦挙した文武の諸大臣もみな誅すべきだと言ったが、部の議がこれを押しとどめて沙汰やみとなった。千戸の白琦はさらにその罪を榜示し、板に彫って天下に示すことを請うた。当時、旨に迎合して寵を得ようとする者は、おおむね謙を口実にした。
  • 謙は額森の変に遭って以来、賊とともには生きないと誓い、常に宿直の廬に泊まって私邸に帰らなかった。もとより痰の持病があり、発作が起こると景帝は興安・舒良を代わる代わる遣わして見舞わせ、身の回りの品が粗末すぎると聞いて上方に調製して賜うよう詔し、酢や野菜に至るまで備えさせ、また自ら万歳山に行幸して竹を伐り、竹の瀝を取って与えた。謙を寵遇しすぎると言う者があると、興安らは「彼は日夜を分かたず国事を憂え、家産を顧みない。彼がいなくなったら、朝廷はどこでこのような人を得られるのか」と言った。
  • 籍没してみると家には余分な財がなく、ただ正室の錠前だけが厳重にかかっていた。開けてみると、帝から賜った蟒衣と剣器であった。死んだ日は暗雲が四方に垂れこめ、天下の人はこれを冤罪とした。
  • 指揮の多喇はもと曹吉祥の部下であったが、酒を謙の刑死の場所に注いで慟哭した。吉祥は怒って鞭打ったが、翌日また同じように酒を注いで手向けた。都督同知の陳逵は謙の忠義に感じ、遺骸を収めて仮埋葬した。翌年、杭州に帰葬された。逵は六合の人で、もと将才として挙げられ、李時勉の門下から出た者である。
  • 皇太后ははじめ謙の死を知らず、聞いてから幾日も歎き悼んだ。英宗もまた後悔した。

于謙――名誉回復

  • 謙の死後、亨の一党の陳汝言が代わって兵部尚書となったが、一年も経たずに失脚し、不正蓄財は巨万に累なった。帝は大臣を召して現物を見せ、悲しげに言った、「于謙は景㤗朝に厚遇されたが、死んでも余分な財はなかった。汝言はどうしてこれほど多いのか」。亨は俯いて答えられなかった。まもなく辺境の急報があり、帝は憂いを顔に表した。恭順侯の吳瑾が侍していて進み出て「于謙が在れば、寇をここまで至らせはしなかったでしょう」と言い、帝は黙り込んだ。
  • この年、有貞は亨に陥れられて金歯に流され、さらに数年して亨も獄に下って死に、吉祥は謀反して一族誅殺され、謙の事は明らかになった。
  • 成化の初め、冕が赦されて帰り、疏を上げて冤を訴え、官を復され祭を賜った。誥に「国家の多難に当たって社稷を保って危うくさせず、ただ公道を独り守ったために権奸に一斉に嫉まれた。先帝はすでにその濡れ衣を知り、朕の心はまことにその忠を憐れむ」とあり、天下の人が伝誦した。
  • 弘治二年(1489年)、給事中の孫需の言により、特進光禄大夫・柱国・大傳(太傅の誤りか)を贈り、粛愍と諡し、その墓に祠を賜って旌功と名づけ、有司が年ごとに祭を行った。萬厯年間に忠粛と改諡された。杭州・河南・山西ではみな代々祀られて絶えなかった。

于冕

  • 冕は字を景瞻という。蔭により副千戸を授かったが、連座して龍門に流された。謙の冤が晴れると冕の官も復されたが、自ら申し出て武職を望まず、兵部員外郎に改められた。官にあって才幹があり、累進して応天府尹に至り、致仕して卒した。子がなく、一族の子である允忠を後嗣とし、代々杭州衛副千戸を襲って祠を守った。

吳寕

  • 寕は字を永清、歙の人。宣徳五年(1430年)の進士で兵部主事に任じられた。正統年間に冄び職方郎中に遷った。郕王監国のとき、謙が薦めて本部右侍郎に抜擢された。
  • 謙が城外で寇を防いでいる間、寕は部務を掌った。軍中に赴いて方略を議するよう命じられ、戻ったとき北城の門が開かず、寇の騎兵が満ちる中、寕は雨の中に立って兵士を指揮し、しばらくしてようやく入城した。
  • 寇が退いた後も畿内の民は毎日たびたび驚き、そろって南へ移ろうとした。改めて勤王の兵を召そうという議が出たとき、寕は「それはかえって驚きを増すだけだ。勝報を四方に告げれば人心はおのずと定まる」と言い、そのとおり奏して実行した。
  • 景㤗改元(1450年)、病のため帰郷を願い出て、その後は再び出仕せず、家に居ること三十余年で卒した。
  • 寕は方正で人物を見る目があった。かつて謙のために婿を選んで千戸の朱驥を得た。謙が疑うと、寕は「公は他日その力を得られましょう」と言った。謙が刑を受けると、驥は果たしてその遺骸を引き取って葬った。驥には別に伝がある。

王偉

  • 偉は字を士英、攸の人。十四歳で父に従って宣府に流された。宣宗が辺境を巡ったとき安辺頌を献じ、保安州の学生に補せられた。正統元年(1436年)の進士で庶吉士に改められ、戸部主事を授かった。
  • 英宗が北狩したとき、監察御史の事を行うよう命じられ、民壮を集めて広平を守った。謙が引き立てて職方司郎中とし、軍務の文書が山積する中で、その処置は多く要所を突いていた。ついに薦められて兵部右侍郎に抜擢され、出て辺境を巡視した。
  • 叛人の小田兒が敵の間諜となったので、謙は偉にその始末を託した。たまたま田兒が貢使に従って入り、陽和城に至ったとき、壮士が道端から躍り出てその首を斬って去った。使者は問いただす勇気がなかった。
  • 偉は策略を用いるのを好んだ。謙に引き立てられたので、謙を嫉む者に一党と見なされることを恐れ、かつて密かに謙の過失を奏して自分を弁解しようとした。帝はその奏を謙に渡した。謙は叩頭して詫びたが、帝は「吾は自ら卿を知っている。何を詫びるのか」と言った。謙が退出すると、偉は「主上と公は何を話されたのか」と尋ねた。謙は笑って「私に落ち度があれば君は面と向かって諫めればよい。どうしてこんなことをするのか」と言い、奏を出して見せた。偉は大いに恥じ入った。しかし結局は謙の一党に連座して罷免され帰郷した。成化三年(1467年)に復官し、白琦が彫らせた板を毀つことを請うた。翌年、病と称して帰り、卒した。

史論

  • 贊に曰く。于謙は巡撫のときすでに実績が際立ち、抜きん出て世を経営する才を備えていた。国難に遭うや兵を整え辺防を固め、景帝が心を開いて任せると、謙もまた国を憂えて家を忘れ、身は国家の安危に繋がり、志は社稷への忠に据えられ、その功績は偉大であった。
  • 変が奪門に起こり、災いの機は突然に発し、徐有貞・石亨の輩が力を尽くして謙を陥れ死なせた。当時これを冤としない者はいなかった。しかし有貞も亨も吉祥も相次いで禍を受け、いずれも間を置かなかった。謙の忠心義烈は日月と光を争い、ついに官を復され祭祀を賜った。公論は久しくして後に定まるとは、まことにそのとおりである。