明史卷一百六十九 列傳第五十七 王直

父・王伯貞の治績

  • 王直は字を行儉といい、泰和の人。父の伯貞は洪武十五年(1382年)に明經として招かれて京に至った。当時、詔に応じた者は五百餘人であったが、伯貞の対策が第一で、試僉事に任じられて廣東を分巡した。雷州では吕塘の廃れた渠を復し、塩法を整えた。分巡官が廃止されたのに合わせて召還され、户部主事となったが、父の喪に服し、服喪が明けても時を得て起用されず、安慶に謫居した。
  • 建文の初め、推薦によってふたたび瓊州の知州となった。崖州の黎人が仇殺し合い、叛乱と報告されて出兵されようとしていたが、伯貞がその首謀者を捕らえたので出兵は取りやめとなった。瓊州の田は年に三度収穫があって軍に賦されていたが、軍は時を選んで受け取らず、民が窮乏するのを待って急に取り立てて利を得ていた。伯貞は期日を定めて三度に分けて納めさせ、この弊はようやく絶えた。数年在って大いに治まり、流民で戸籍に入った者は萬餘に及んだ。喪のため帰り、家で卒した。

翰林から吏部尚書へ

  • 王直は幼くして端正沈着、家は貧しかったが力めて学び、永樂二年(1404年)の進士に及第して庶吉士に改められ、曽棨・王英ら二十八人とともに文淵閣で読書した。帝はその文をよしとして内閣に召し入れ、起草に当たらせ、まもなく修撰に任じた。
  • 仁宗・宣宗の朝を経て、累進して少詹事兼侍讀學士となった。正統三年(1438年)、『宣宗實録』が完成すると禮部侍郎に進み、學士は従前どおりであった。正統五年(1440年)、出て郎の事に臨んだ。尚書の胡濚が部政をすべて委ねたが、王直はもとから習っていたかのように処理した。
  • 正統八年(1443年)正月、郭進(郭琎の誤りか)に代わって吏部尚書となった。
  • 正統十一年(1446年)、户部侍郎の奈亨が王振に付いて郎中の趙敏を陥れようとし、供述が王直および侍郎の曹義・趙新に及んで、ともに獄に下された。三法司が廷で鞫問し、奈亨は斬、王直らは徒罪を贖うべきとされたが、帝は王直と曹義を宥し、奈亨と趙新の俸を奪った。

親征の諫止と土木の後

  • 帝が額森を親征しようとしたとき、王直は廷臣を率いて力を尽くして諫めた。趣旨は次のとおりである。国家の辺境の備えはきわめて厳重で、謀臣・猛将・堅甲・利兵はどこにも満ちており、耕しながら守っているからこそ長く安泰であった。いま敵がほしいままに猖獗し、天に背き理に悖っているのだから、陛下はただ封疆を固め、号令を申し渡し、堅壁清野の策を取り、蓄えを保って待てば、必勝を図れる。自ら六師を率いて遠く塞下に臨まれてはならない。まして秋の暑さは去らず、旱の気は戻らず、青草は乏しく、水泉はなお冷たく、士馬の用意も整っていない。兵は凶器、戦は危事である。臣らは不可と考える、と。
  • 帝は従わず、王直に留守を命じた。王師が土木で覆ると、大臣たちは太后に皇子を皇太子に立てるよう請い、郕王に攝政を命じ、さらに王に即位を勧めて動揺を鎮めた。当時、変事が慌ただしく起こり、朝臣の議はたびたび上奏されたが、いずれも王直が筆頭であった。しかし王直は自分が于謙に及ばないとして、事あるごとに于謙に譲り、ゆったりと構えて全体をまとめるだけであった。太子太保を加えられた。

遣使と上皇奉還の主張

  • 景泰元年(1450年)、額森が使者を寄越して和を議し、あわせて上皇を還したいと申し出た。禮部に下して議させたが決まらなかったので、王直が群臣を率いて上言した。趣旨は次のとおりである。太上皇は小人の言に惑わされて軽々しく一度出御され、塵を蒙るに至った。陛下は夜も明けやらぬうちに衣を着け日が暮れてから食事をなさり、天下の兵を徴し、群臣・百姓と心を一つにして力を尽くし、朝食前にこれを滅ぼして不倶戴天の恥を雪ごうと期しておられる。いま天がその心を誘い、額森に悔い改める気が芽生えて我に和を求め、乗輿を還したいと言ってきた。これは禍を福に転ずる機会である。どうか陛下はその請いに従い、使者を遣わして返答し、あわせてその誠偽を察して受け入れ、太上皇を奉じて帰らせ、少しでも祖宗の心を慰めていただきたい。陛下の天位はすでに定まっており、太上皇が還っても再び天下の事に臨まれることはない。陛下がただ崇め奉られれば、天倫は厚くなり天の眷顧はいっそう篤くなる。まことに古今の盛事である、と。
  • 帝は「卿らの言はもっともだ。しかし前後五度も使者を遣わしたが、ついに要領を得なかった。いま再び使者を遣わし、もし彼らが御駕送還を名目に京師を犯してきたら、蒼生の患いにならぬか。賊は詐りが多く信じがたい。あらためて議せよ」と言った。
  • まもなく衞拉特の別部である阿拉の使者がまた来たので、胡濚らがまた進言した。そこで帝は文華殿の門に出御して諸大臣および言官を召し、断交すべき事情を諭した。王直は「必ず使者を遣わすべきです。後悔を残されませんよう」と答え、帝は不快となったが、于謙が進み出て取りなし、帝の気持ちが和らいで群臣は許された。
  • 退出すると、太監の興安が走り出てきて「お前たちがどうしても使者を遣わせと言うが、文天祥や富弼のような者がいるのか」と呼ばわった。王直は大声で「廷臣は天子の使いに他ならぬ。その禄を食んでいる以上、難を辞せようか」と言い、繰り返し言ううちに声も顔つきもいよいよ厳しくなり、興安は返す言葉がなかった。
  • そこで使者を遣わす議となり、李實・羅綺を遣わすよう命じられた。彼らが出発したのち、衞拉特の汗である托克托布哈および額森の使者が相次いで到着した。帰す使者を遣ろうとしたとき、彼らは館伴(接待役)に「中国の関外十四城はみな我らのものだ。先に阿拉知院の使者が来たときも、なお同行させて遣わしてくれた。今回も必ず大臣に同行してもらってこそ話がまとまる」と言った。胡濚がこれを奏聞し、廷議に下された。王直らが強く請うたので、楊善らを遣わして返答させた。
  • 李實が帰ると、また額森の使者が到着し、額森が和を望んでいる様子を詳しく述べた。王直は寕陽侯の陳懋らとともに上疏して、あらためて使者に礼幣を持たせて上皇を迎えに行かせるよう請うたが、許されなかった。
  • ふたたび上疏して述べた。「臣らは李實と話し、彼の地の事情をすべて聞きました。衣物や路銀を求めているのは上皇のお言葉であり、車駕を奉迎するというのは額森の意です。先ごろ托克托布哈および阿拉知院の使者が来たときは、いずれも返礼の使者を出しました。いま額森の使者が奉迎を口実にしているのに使者を同行させないのは、敵を疑って兵を招くことになります」。これも許されなかった。
  • やがて李實が自ら帝に申し上げたが、帝はただ額森へ書を返し、そのまま楊善に迎えに行かせただけであった。王直らはまた上言した。「いま北への使者はすでに出発しました。どうか上皇の御心に沿い、臣民の願いに従い、彼らの悔い改める心に乗じて使者を遣わして返答し、迎え復すことを図ってください。これは計るまでもなく決すべきことです。さもなければ、衆志に逆らうことは難しく、天に違えば不祥です。彼らはこれを口実に兵端を開き、辺の事はいっそう厳しくなり、京師も枕を高くして眠れなくなりましょう」。
  • 帝はそこで群臣に使者を選ばせた。王直と陳懋らはやはり李實を遣わすよう請うたが、「楊善の帰りを待って議せよ」との答えであった。御史の畢鑾らもまた上疏して「たとえ彼らが詐りで来たとしても、我らは誠をもって行くべきです。万一のことがあっても我らの兵力は健在です」と力説したが、帝はついに聴かなかった。やがて楊善がついに上皇を奉じて還った。
  • 景泰二年(1451年)、額森の使者が入貢し、あわせて返礼の使者を請うた。王直はたびたび上疏し、「辺の備えは整わず、秣と糧は足らず、傷は癒えていません。その請いに従って使者を遣わし、虚実を窺い、その善意を導くべきです」と述べたが、許されなかった。
  • 間もなく額森が騎兵を塞内に入れ、返礼の使者がないことを口実とした。王直は群臣とともに重ねて請うたが、ついに許されなかった。そこで王直らは上疏して述べた。「陛下は鋭意兵を治め戦守の計を立てておられ、まことに大いに為すところのある君主です。しかし使命が通じない以上、彼らが寇とならぬ保証はありません。沿辺の守臣に敕して兵を出して遊撃・巡邏させ、警報があれば城に入って保ち、事がなければ力を尽くして耕させるべきです。陛下は機務の暇に折々に京營の總督・總兵を召して方略を尋ね、誠意をもって接し礼を厚くし、賞罰を信として後を締めれば、戦守が語れます」。帝は「よい」と言った。

東宮の易替と致仕

  • 翌景泰三年(1452年)正月、少傅に進んだ。帝は太子を替えようとしていたがまだ言い出していなかった。折しも思明の土知府である黄□(底本欠字)がこれを請うたので、帝は喜んで禮部に下して議させた。胡濚は唯々として従い、文武の諸臣で議に加わった者は九十一人であった。署名する段になって王直が渋る様子を見せると、陳循が筆を濡らして強いたので、ようやく署名した。ついに皇太子は替えられた。王直は太子太師の兼帯に進み、金帛を等級を加えて賜ったが、足を踏み鳴らして嘆き、「これほどの大事が、一介の蠻酋によって壊された。我らは恥じて死ぬべきだ」と言った。
  • 景帝の病が篤くなると、王直・胡濚らは諸大臣・台諫を集めて沂王を皇太子に復立するよう請い、大學士の商輅を推して上疏を起草させた。まだ上奏しないうちに石亨・徐有貞らが門を奪って上皇を迎えて復位させ、王文らを殺した。上疏の草稿は姚䕫のもとに残っており、かつてこれを取り出して郎中の陸昶に示し、「この疏を進められなかったのは天である」と嘆いた。
  • 王直はそのまま致仕を乞い、璽書・金綺・楮幣を賜り、駅伝を与えられて帰った。
  • 王直は人となりが四角い顔に長い髯で、風貌はきわめて堂々としていた。性は厳重で、みだりに談笑しなかったが、人と交わるときは温和であった。翰林に二十餘年在り、古を稽え帝の言葉を代作し、編纂や紀注の事の多くはその手から出た。金谿の王英と名を並べ、人は「二王」と称し、住まいの場所から王直を「東王」、王英を「西王」と呼んだ。
  • 王直は順序では入閣すべきであったが、楊士竒がこれを望まなかった。吏部の長となってからはいっそう清廉慎重となった。当時、廷臣が地方の大吏を推薦することが廃されたばかりで、もっぱら吏部の所管とされていた。王直は曹郎(部下の郎官)に委任し、猟官運動を厳しく抑えた。御史が地方巡察から帰ると必ず管轄下の官の賢否を具申させ、選抜昇進に備えたので、人を得たと称された。
  • その子の䆅が南京國子博士として勤務評定のため部に来たとき、文選郎が王直の側に留めようとしたが、王直は許さず、「これでは法を乱すことが自分から始まってしまう」と言った。
  • 朝廷は王直が老齢であるとして何文淵を尚書としてこれを佐けさせ、何文淵が去るとまた王翺を命じたので、部には二人の尚書がいることになった。
  • 王直は尚書であること十四年、年を重ねるほど名声と徳望は日に日に重くなり、帝は礼遇して常朝への出仕を免じた。家居してからは、しばしば佃僕たちとともに耕し植え、鼓を打って歌い、子や孫が代わる代わる杯を挙げて長寿を祝った。王直は嘆じて言った。「かつて西楊(楊士竒)が私を抑えて内閣で共に働けぬようにしたが、もし私が閣にいたなら、主上の復辟に際して遼陽行き(流謫)を免れなかっただろう。どうしてお前たちと楽しめようか」。
  • 天順六年(1462年)に卒した。年八十四。太保を贈られ、諡を文端とされた。子の䆅は翰林檢討にまで至り、やはり学問と行いで称えられた。曽孫の思には別に伝がある。

史論

  • 贊に言う。髙榖の清廉率直、胡濚の寛厚、王直の端正沈着は、いずれも大臣の器量を備えていた。英宗・景帝の間、国勢が変わったばかりで人心は様子を窺い、政を執り事に当たる臣の多くは意に阿って気に入られようとしたが、髙榖は御駕奉迎の儀に心を尽くし、王直もまた遣使の請いに堂々と発言し、いずれも正論を守って衆に従って浮き沈みしなかった。それゆえ大きな声望を担い、終始一つの節を保つことができた。老成の人と言ってよい。ただ東宮の易替の議については、三人とも心では非と知りながら附和を免れなかった。これはいったいどうしたことか。