明史卷一百六十九 列傳第五十七 胡濙

建文帝の行方を尋ねて天下を巡る

  • 胡濙は字を源潔といい、武進の人。生まれたとき髪が白く、ひと月ののちようやく黒くなった。建文二年(1400年)に進士に及第し、兵科給事中に任じられた。永樂元年(1403年)、户科都給事中に遷った。
  • 惠帝(建文帝)が火中に崩じたことについて、逃げ延びて旧臣の多くが従っているという説があり、帝(成祖)はこれを疑った。永樂五年(1407年)、胡濙を遣わして御製の諸書を頒布させ、あわせて仙人の張邋遢を訪ねるという名目で天下の州郡・郷邑をくまなく回らせ、ひそかに建文帝の所在を探らせた。
  • 胡濙はこのため外にあることが最も長く、永樂十四年(1416年)にようやく帰った。行く先々で民の隠れた苦しみも報告した。母の喪で帰郷を乞うたが許されず、禮部左侍郎に抜擢された。
  • 永樂十七年(1419年)、ふたたび出て江浙・湖湘の諸府を巡り、永樂二十一年(1423年)に帰朝し、宣府の帝のもとへ馳せ参じた。帝はすでに就寝していたが、胡濙の到着を聞いて急ぎ起きて召し入れた。胡濙は見聞したところをすべて報告し、四更(深夜)になってようやく退出した。
  • これより先、胡濙が帰る前は、建文帝が海に出て去ったという噂があり、帝は内臣の鄭和ら数名を分遣して海を渡り西洋へ下らせていた。ここに至って疑いはようやく解けた。
  • 皇太子が南京で監國していたとき、漢王が流言を飛ばして太子を謗った。帝は胡濙の官を南京に改め、ついでにこれを調べさせた。胡濙は着くと監國の七事を密かに上疏して馳せ報じ、太子は誠実・敬虔・孝順・謹直で他意はないと述べたので、帝は喜んだ。

仁宗・宣宗・英宗三朝の礼部尚書

  • 仁宗が即位すると召されて行在禮部侍郎となった。胡濙は十事を陳べ、北京に都を定めるのは不便であるとして南都に還り、南北の転運と供給の煩わしさを省くよう強く請い、帝はいずれも嘉して容れた。しかし、かつて密疏を奉ったことがあると聞くと疑い、結局は召さなかった。太子賓客兼南京國子祭酒に転じた。
  • 宣宗が即位すると、そのまま禮部左侍郎に遷った。翌年(宣徳二年、1427年)朝見に来たので、行在禮部に留められ、まもなく尚書に進んだ。
  • 漢王が叛くと、楊榮らとともに親征を勧め、平定後の賜与はたいへん手厚かった。翌年、長安右門の外に邸宅を賜り、門番二人を与えられ、銀の印章四つを賜り、誕生日にはその邸で宴を賜った。
  • 宣徳四年(1429年)、詹事府の事を兼理するよう命じられた。宣徳六年(1431年)、張本が卒すると、あわせて行在户部を兼領した。当時、国用が次第に膨らんでいたので、胡濙は財政の不足を憂え、租を免ずる詔が下るたびに阻んだ。帝は厳しく戒めたことがあったが、目をかけることは少しも衰えなかった。かつて内輪の宴で胡濙および楊士竒・夏原吉・蹇義に「海内に憂いがないのは、卿ら四人の力である」と言った。
  • 英宗が即位して無駄な費えを節するよう詔したとき、胡濙は上供の物を減らし、法王以下の番僧四、五百人を淘汰するよう奏し、無駄な出費は大いに省かれた。
  • 正統五年(1440年)、山西が災害に遭い、詔して寛大な恤典が行われたが、その後に物資を買い上げる命が出た。胡濙は上疏して詔旨は信を守るべきだと述べ、また軍旗(軍の下級役)が派遣の役を求めて民を騒がせているので廃止すべきだと述べ、いずれも可とされた。
  • 行在禮部の印が失われたとき、詔して不問に付し改鋳を命じたが、また失われたので弾劾されて獄に下された。まもなく印が見つかり、職に復した。正統九年(1444年)、七十歳になって致仕を乞うたが許されなかった。

胡濚――土木の変と上皇奉迎の議

  • 英宗が北狩(土木の変で捕らわれること)すると、群臣は朝廷に集まって哭し、南遷を議する者もあった。胡濚は「文皇(成祖)が陵寝をここに定められたのは、子孫に動かさぬ計を示されたのである」と言い、侍郎の于謙と意見が合って、内外はようやく固く守る志を持った。
  • 景帝が即位すると太子太傅に進んだ。楊善が額森のもとへ使いしたとき、胡濚は「上皇が久しく塵を蒙っておられる。衣服と食物を添えて進めるべきだ」と言ったが、返答がなかった。
  • 上皇が還ろうとすると、禮部に奉迎の儀を定めるよう命じられた。胡濚らは次のように議した。禮部を遣わして龍虎臺で迎え、錦衣衛が法駕を備えて居庸闗で迎え、百司は土城の外で迎え、諸将は教場門で迎える。上皇は安定門から入り、東安門へ進み、東上北門で南面して坐し、皇帝が謁見を終えたのち百官が朝見し、上皇は南城の大内に入る、と。
  • 上奏すると、旨が伝えられ、輿一挺・馬二頭で居庸闗に迎え、安定門に至って法駕に換える、残りは奏のとおりとされた。
  • 給事中の劉福らが「礼が薄すぎる」と言うと、帝は「朕は大兄を太上皇帝と尊んだ。尊礼はこれ以上ない。劉福らがわざわざ薄すぎると言うのは、どういう意図か。禮部は官を集めて詳しく調べよ」と答えた。胡濚らは「諸臣に他意はありません。陛下に親しみを篤くしていただきたいだけです」と言上した。帝は「昨日、太上皇の書を得たが、奉迎の礼は簡素にすべきだと言っておられる。朕がどうして違えられよう」と言い、群臣は敢えて言わなくなった。
  • 折しも千户の龔遂が書を大學士髙榖に投じ、奉迎は厚くすべきだとして唐の肅宗が上皇を迎えた先例を詳しく述べた。髙榖はこれを袖にして参内し、王直らとともに見た。王直と胡濚は奏聞しようとしたが都御史の王文に阻まれ、結局は給事中の葉盛が奏聞した。葉盛の同官である林聰は、あわせて「王直・胡濚・髙榖らはみな股肱の大臣であり、聞いたことがあれば必ず告げるべきで、私語してひそかに議すべきではない」と弾劾した。
  • 詔して書を差し出させたので、胡濚らはその書を進め、あわせて「肅宗が上皇を迎えた典礼は、今日まさに倣うべきです。陛下は自ら安定門の外にお出迎えになり、大臣を分遣して龍虎臺で迎えさせるべきです」と述べた。帝は不快となり、「ただ朕の命に従え。あれこれ変えるな」と言った。
  • 上皇が到着して南城の宮に居ると、胡濚は翌年の元旦に帝が群臣を率いて延安門で朝するよう請うたが許されず、上皇の萬寿節に百官に延安門で拝賀させるよう請うたのも許されなかった。
  • 景泰三年(1452年)正月、王直とともに少傅に進み、太子が替えられると太子太師の兼帯を加えられた。
  • 王文が林聰を憎み、罪を仕立てて殺そうとしたとき、胡濚は署名を承知せず、病と称して数日朝に出なかった。帝が興安を遣わして病を尋ねさせると、「老臣にはもともと病はありません。ただ林聰を殺そうとしていると聞いて、ひどく驚き動悸がするだけです」と答えた。林聰はこれによって釈された。

胡濚――致仕と晩年

  • 英宗が復位すると、病を押して参朝し、そのまま辞職を求めた。璽書・白金・楮幣・襲衣を賜り、駅伝を与えられ、その子一人を錦衣衛の世襲鎮撫に任じられた。
  • 胡濚は六朝に仕えて六十年近くに及び、内外から徳の高い長老と称された。帰郷してみると三人の弟がいずれも七十餘歳で、鬚眉は真っ白であった。一堂に集まって宴を張り、そこでこれを「夀愷」と名づけた。さらに七年してようやく卒した。年八十九。太保を贈られ、諡を忠安とされた。
  • 胡濚は節倹で寛厚、喜怒を顔に出さず、よく身を低くして人に接した。禮部に長く在って、祥瑞を賀する表では官の順として筆頭に署名したので、人は迎合が上手な性質だと言った。南城の人である龔謙は妖術に長けていたが、胡濚はこれを天文生に推薦し、また道士の仰彌髙が陰陽と兵法に通じているとして推薦し、辺を守らせた。当時、これはかなり批判された。