明史卷一百六十八 列傳第五十六 江淵

固守を進言して抜擢される

  • 江淵は字を世用といい、江津の人。宣徳五年(1430年)の庶吉士で、編修に任じられた。正統十二年(1447年)、詔して杜寧・裴綸・劉儼・商輅・陳文・楊鼎・吕原・劉俊・王玉と合わせて十人が東閣で学業を修め、曹鼐らがその師となった。
  • 郕王が監國したとき、徐有貞が南遷を唱えたが、太監の金英が叱って追い出した。よろめきながら左掖門を過ぎるところへ、ちょうど江淵が入ってきて尋ねると、徐有貞は「私が南遷を議して受け入れられなかったのだ」と答えた。そこで江淵は入って固守の策を強く陳べ、王に認められた。侍講から抜擢されて刑部右侍郎となった。
  • 額森が京師に迫ると、都督の孫鏜の軍事に参画するよう命じられた。
  • 景泰元年(1450年)、紫荆・倒馬・白羊の諸関所を視察に出、都指揮同知の翁信とともに雁門闗の修築を監督した。その秋、本官のまま翰林學士を兼ねて入閣し、機務に与った。まもなく户部侍郎に改められ、兼職は従前どおりとされた。
  • 翌景泰二年(1451年)六月、天変を理由に三事を条陳した。一つは朶顔・赤斤の諸衛と厚く結んで東西の藩屏とすること、一つは京軍の餘丁を免じて生業の資とさせること、一つは王振の残党を告発することを禁じて冤罪と濫刑を免れさせること。詔してすべて容れられた。
  • さらに翌景泰三年(1452年)二月、吏部に改められ、なお學士を兼ねた。この春、京師で雨と雪が長く続いたので、江淵は上言した。趣旨は次のとおりである。漢の劉向は「およそ雨は陰である。雪は雨のさらに陰である」と言った。仲春は少陽の用事する時なのに寒気がこれを脅かしている。占法ではこれを人君の刑法が暴虐で濫りである象とする。陛下の恩威は広く行き渡り、過ちを赦し罪を宥めぬことはないが、有司の実施が行き届かず冤抑が晴れぬ者がいるのではないか。また先には明詔を下して景泰二年の田租の三分の一を免じたのに、いま檄を回して追徴している。これでは朝廷が自ら民への大信を失うことになる。怨気が鬱結しているのは、まさにこれによる、と。
  • 帝はそこで法司に冤罪と濫刑を正させ、户部の詔違反を詰問して尚書の金濓を獄に下し、結局は詔のとおり税を免じた。
  • 東宮が替えられると太子少師を加えられた。四川巡撫僉都御史の李匡は職務に堪えなかったので、江淵の言によって罷免された。
  • 母の喪に遭ったが起復した。これより先、侍講學士の倪謙が喪に遭ったとき、江淵が倪謙を講官に推薦し、倪謙は喪を奪われた。ここに至って御史の周文が「江淵が倪謙を引いたのは、まさに今日の自分の地歩のためだ」と言った。帝はすでに処分済みとして問わず、今後は群臣が喪に遭った際に濫りに保挙せぬよう令した。
  • 景泰五年(1454年)春、山東・河南・江北が飢えたので、平江侯の陳豫とともに撫恤に赴くよう命じられた。江淵は前後して軍民の便益となる十数事を条陳し、あわせて淮安に月城を築いて常盈倉を守り、徐州の東城を広げて廣運倉を守るよう請い、いずれも議して実行された。
  • 当時、江北は飢饉が重なっていたので、江淵は淮安への輸送途上の糧をすべて呼び戻して振恤に備えたが、漕卒が機に乗じて掠め取った。事が朝廷に伝わり、御史を遣わして事実を調べさせ、江淵は弾劾されて籍を削られるべきとされた。廷臣は「江淵は便宜の権を守ったのであって罪に当たらない」としたので、帝は宥した。
  • 閣臣たちは互いに折り合わず、とりわけ陳循と王文は峻厳で私心が強かった。江淵は議論好きで、そのつど同官に抑えられ、心が晴れなかった。折しも兵部尚書の于謙が病で休んでいたので、詔して一人を推挙して部の事を協理させることになった。江淵は内心これを得たいと思ったが、陳循らは表向き江淵を推しつつ、ひそかに商輅に上奏文を起草させ、「石兵江工」(石璞を兵部へ、江淵を工部へ)の四字を示した。江淵は傍らにいながら気づかなかった。詔が下ると、工部尚書の石璞が兵部へ移され、江淵が石璞の後任とされ、江淵は大いに失望した。
  • 英宗が復位すると、陳循らとともに遼東へ流され、まもなく卒した。
  • はじめ黄□(底本欠字)が東宮の易替を奏したとき、江淵が主導したのではないかと疑う者がいた。邱濬は「これは容易に見分けられる。廣西の紙は京師の紙と違う」と言い、その奏文を取り寄せて見たところ果たして廣西の紙で、誣告であることが明らかになった。成化の初め、官を復された。