明史卷一百六十八 列傳第五十六 王文

御史から巡撫・都御史へ

  • 王文は字を千之といい、はじめの名は强、束鹿の人。永樂十九年(1421年)の進士で、監察御史に任じられた。清廉を持し法を奉じたので、都御史の顧佐に称えられた。
  • 宣徳の末、命を受けて彰徳の妖賊張普祥の獄を処理し、帰って奏したところ旨に適い、今の名(文)を賜った。
  • 英宗が即位すると陜西按察使に遷った。父の喪に遭い、命じられて奔喪したのち職務に復した。
  • 正統三年(1438年)正月、右副都御史に抜擢されて寧夏を巡撫した。正統五年(1440年)、召されて大理寺卿となり、翌正統六年(1441年)、刑部侍郎の何文淵とともに在京の刑獄を審査した。まもなく右都御史に遷った。
  • 正統九年(1444年)、延綏・寧夏の辺務を視察に出、定邊營で規律を失した都督僉事の王禎、都督同知の黄真らの罪を弾劾して処罰し、辺境は粛然とした。翌正統十年(1445年)、陳鎰に代わって陝西を鎮守した。平涼・臨洮・鞏昌が飢えたので、奏してその租を免じた。まもなく左都御史に進んだ。陝西に在ること五年、静かに鎮めて民を騒がせなかった。
  • 景泰改元(1450年)、召されて院(都察院)の事を掌った。
  • 王文は人となりが厳しく胸に城府があり、面持ちは冷たく厳格で、陳鑑と同官であっても一礼するほかは言葉を交わしたことがなかった。諸御史は神を畏れるように恐れ、廷臣で私事を頼む者はいなかった。しかし内実は柔弱でへつらいがあった。はじめ大理少卿薛瑄の獄を按じた際には王振の意を迎えて薛瑄を死罪にしようとした。またこのころ、中官の金英が家奴の不法を放任した事件を処理した際も、奴の罪に問うただけであった。給事中の林聰らが「王文と陳鎰は勢いを畏れて奸を助長した」と弾劾し、詔獄に下されたが、二人とも罪に服したので宥された。

入閣と江淮の賑恤

  • 景泰二年(1451年)六月、學士の江淵が「法司の断獄には冤罪が多い」と上言したので、王文および刑部尚書の俞士悦は罷免を求め、あわせて「江淵はかつて私事を頼んで聴き入れられなかったから、それで誣告するのだ」と述べた。帝は双方とも不問に付した。
  • 景泰三年(1452年)春、太子太保を加えられた。当時、陳鑑が陝西鎮守から帰ろうとしており、王文が代わるはずであったが、諸御史が続けざまに上章して留任を求めたので、侍郎の耿九疇を代わりに命じた。
  • 南京で地震があり、江淮以北で大水があったので、巡視を命じられた。南京の九卿とともに議して軍民の便益となる九事を上呈した。また「徐州・淮安の間はひどい飢饉なのに、南京の蓄えには余裕がある。徐州・淮安の倉の粟をすべて出して振貸し、南京へ輸送すべき分を徐州・淮安へ輸して欠を補いたい」と述べ、いずれも可とされた。
  • このころ陳循が最も権を握って剛情に振る舞い、高穀は陳循と折り合わなかった。高穀は王文が強硬なのを見て、これを引き入れて政に与らせ陳循に対抗させようと考え、閣員の増員を上疏して請うた。陳循は同郷の蕭維禎を挙げ、高穀は王文を挙げた。王文は中官の王誠の助けを得て、詔により登用された。
  • まもなく江淮から帰朝し、吏部尚書兼翰林院學士に改められて文淵閣に入直した。二品の大臣が入閣したのは王文に始まる。まもなく母の喪に遭ったが、前と同じく喪を奪われて職に留まった。
  • 王文は高穀に引かれた身でありながら、高穀が慎重で鈍いのに対し陳循の性が明快果断であったため、かえって陳循と結び高穀に付かなかった。のち子の倫の一件で考官を陥れようとしたのも、高穀の意見によって罷めさせられ、これによって二人はついに相容れなくなった。
  • 景泰五年(1454年)三月、江淮の大水でふたたび巡視を命じられた。これより先、蘇州・松江・常州・鎮江の四府では糧四石を白銀一兩に折納することとされ、民は便利としていた。のち户部がまた米で徴収して徐州・淮安へ輸送させ、総計一百十餘萬石に及んだが、三石を運んで一石が届く有様で、家を破る者もあった。王文は便宜をもってこれを停止させた。また倉を開いて飢民三百六十餘萬を振恤した。
  • 当時、飢饉の年で盗が多く、王文は長洲の盗許道師ら二百人を捕らえたが、功を大きく見せようとして謀逆の罪に問おうとした。大理卿の薛瑄がその誣告であることを弁じ、給事中の王鎮が廷臣を集めて実地に調べるよう乞うたところ、盗であった者は十六人と判明し、これを法に処して残りは釈された。
  • 帰還して少保兼東閣大學士に進み、さらに謹身殿大學士に進んで東閣大學士を兼ねた。

冤死とその後

  • はじめ英宗が還るとき、廷臣が奉迎の礼を議した。王文は当時都御史であったが、厳しい声で「諸公は上皇が本当に帰ってくるとお思いか。額森が土地も金帛も求めずに、あっさり御駕を送って寄越すとでも」と言った。人々はふだんから王文を畏れていたので、みな唖然として決められぬまま散会した。
  • 東宮を替える議が起こると、王文は真っ先に命を承けた。景帝が不予となり、群臣が沂王(憲宗)を東宮に戻すよう乞おうとしたとき、王文は「主上の御意がどこにあるか分かるものか」と言い、そのうえで「早く元良(皇太子)を選ぶべきです」と上疏した。これにより「王文が中官の王誠らと謀って襄王の世子を召し取ろうとしている」と内外に噂が広まった。
  • 英宗が復位すると、その日のうちに于謙とともに班列の中で捕らえられた。言官は「王文と于謙らは外藩の者を立てようと謀った」と弾劾し、廷での鞫問を命じられた。王文は力を尽くして弁じ、「親王を召すには金牌と信符を用い、人を遣わすには必ず馬牌がいる。内府と兵部で確かめられるはずだ」と述べ、その言葉は激しく毅然としていた。車駕主事の沈敬を逮えて調べても形跡はなかったが、廷臣はついに「于謙と王文が沈敬を召して謀ったが計画が定まらなかった」ことにして、于謙とともに市で斬った。子らはみな辺境へ流され、沈敬もまた謀反を知りながら故意に見逃した罪で死一等を減じられて鐵嶺へ流された。
  • 王文の死は誰もが誣告と知っていたが、日ごろ峻厳で嫉み深く、しかも奉迎の議と皇儲回復の議で世論に沿わなかったため、冤罪で死んでも民は惜しまなかった。
  • 成化の初め、その子は赦されて帰り、まもなく官を復され、太保を贈られ、諡を毅愍とされた。子の倫は宗彞と改名し、成化の初めに進士となり、户部郎中を歴任し、遼東の軍餉の管理に出た。中官の汪直が東征したとき、宗彞の督餉の労を言上したので太僕少卿に抜擢され、𢎞治年間に累進して南京禮部尚書に至り、卒して諡を安簡とされた。