関所を守って死す
- 孫祥は大同の人。正統十年(1445年)の進士で、兵科給事中に任じられ、右副都御史に抜擢されて紫荆闗の守備にあたった。額森が關に迫り、都指揮の韓青が戦死したが、孫祥は四日間堅守した。額森が間道から入って挟み撃ちにしたので關は破られ、孫祥は兵を督して市街戦を行ったが、兵が潰えて殺された。
- 言官は誤って孫祥が城を捨てて逃げたと弾劾した。寇が退いてから有司が關を修めた際、戦場でその屍を見つけ、焼いて埋葬したが、朝廷には報告しなかった。孫祥の弟の祺が闕に赴いて冤を訴え、詔してその家を恤した。成化改元(1465年)、その子の紳が大理寺右評事に採用された。
- また謝澤という者は上虞の人。永樂十六年(1418年)の進士で、南京刑部主事から廣西參政に出、正統の末に通政使に抜擢されて白羊口の守備にあたった。王師が土木で敗れると、辺を守る者は堅い志を持たなくなっていた。謝澤(底本は「潭」に作るが謝澤の誤りか)は子の儼に訣別して赴任した。事に就いて数日も経たぬうちに額森の兵が大挙して侵入し、守将の吕鐸は逃げたが、謝澤は兵を督して山口を扼した。大風が砂を巻き上げて人馬の見分けもつかず、化闗へ移って敵を避けるよう請う者もあったが、謝澤は聴かなかった。寇が至って衆は潰え、謝澤は剣を按じて厳しい声で賊を叱り、そのまま殺された。事が朝廷に伝わると官を遣わして葬り祭らせ、儼を大理評事に採用した。