明史卷一百六十六 列傳第五十四 方瑛

麓川と貴州・湖廣の苖平定

  • 方瑛は都督方政の子である。正統の初め、舍人として父に従い麓川を征したが父が戦死したので、憤りを発して父の仇を報いることを誓った。はじめ指揮使を襲い、のち方政の殉職の功が論じられて都指揮同知に遷った。
  • 正統六年(1441年)、王驥に従って麓川を征し、兵六千を率いて賊の壘に突入した。賊の首領は黄衣を着て帳中にいたが、方瑛はまっすぐ進んで左右に撃ち数百人を斬り、踏み殺された者は数知れず、ついにその地を平定して都指揮使に進んだ。まもなく再び王驥に従って貢章・沙壩・阿嶺の諸蠻を破り、都督僉事に進んで後府の事にあたり、右㕘將として雲南の守りを協同した。
  • 正統十三年(1448年)、また王驥に従って麓川を征し、鬼山の大寨を破り、雲南に留まって鎮した。
  • 景泰元年(1450年)、朝議で方瑛に将略があるとして都督毛福夀を代わりに置き、方瑛を召還して都督同知に進めた。ところが京に着いたばかりのところで貴州の諸苗が叛いて道が塞がったので、王驥が方瑛を戻して討たせるよう請うた。同年四月、右副總兵を拝し、保定伯梁珤・侍郎侯璡とともに次々と賊を破り走らせ、右都督に進んだ。さらに賞改の諸砦を破り、僭称の苖王王阿同らを捕らえた。侯璡が卒すると都御史王來が代わって軍務を督し、道を分けて香爐山の賊を撃ち、方瑛は龍場から入って大いに破り平らげた。
  • 景泰三年(1452年)秋、王來が方瑛の違法を弾劾したが不問に付され、王來が召還されると方瑛は貴州の鎮守を命じられた。その冬、白石崖の賊を討って二千五百人を捕らえ斬り、四百六十砦を招降し、左都督に進んだ。
  • 景泰五年(1454年)、四川の草塘の苖黄龍・韋保が乱を起こし、平天大王を自称して播州の西坪・黄灘を掠めた。方瑛は巡撫蔣琳とともに四川の兵を合わせて討伐し、賊の首魁はみな縛につき、さらに兵を分けて中潮山および三百灘・乖西・谷種・乖立の諸砦を落とし、僭称の王谷蟻丁らを捕らえ、斬首七千餘。詔して南和伯に封じられた。
  • 方瑛は将として紀律を厳しくし、賞罰を信とし、陣に臨んで勇敢で、よく士を撫したので、士はみな進んで用いられようとした。それゆえたびたび功があった。廷臣が禁軍を委ねるべきだと言ったので召還され、石亨とともに京營の軍務を督した。翌年、蔣琳が「方瑛が以前に貴州を守っていたときは辺境が安寧で苖蠻が畏服した」として帰任させるよう奏したが、帝は許さなかった。
  • まもなく湖廣の苗が叛いたので、方瑛は平蠻將軍を拝して京軍を率いて討ち、御史張鵬にその後方を偵察させたところ、張鵬は「方瑛の通った跡は秋毫も犯していない」と復命し、帝は大いに喜んだ。
  • 景泰七年(1456年)、賊の首領䝉能が平溪衛を攻めたが、都指揮鄭泰らが撃退し、䝉能は火槍に当たって死んだ。方瑛はそのまま沅州へ進み、鬼板など一百六十餘砦を続けて破り、尚書石璞とともに兵を天柱へ移し、陳友らを率いて天堂の諸砦を分かれて撃ち、また大いに破って二百七十砦を落とし、僭称の侯伯以下一百二人を捕らえた。このとき英宗はすでに復位しており、勝報が届くと石璞は召還され、方瑛は貴州・湖廣に留まって鎮した。
  • 方瑛は䝉能の残党を討って銅鼓・藕洞など一百九十五砦を落とし、覃洞・上隆の諸苖はそれぞれ首領を斬って帰服した。帝は方瑛の功を嘉して侯に進めた。
  • 天順二年(1458年)、貴州東部の苖千把豬らが僭号して都匀の諸衛を攻めたので、方瑛は巡撫白圭とともに四川・湖廣・雲南・貴州の軍を合わせて討ち、六百餘砦を落とし、辺境はことごとく安定した。方瑛が前後に落とした砦はおよそ二千、捕らえ斬った者は四萬餘に及び、苗を平らげた功でこれに比肩する者はそれ以前にいなかった。
  • まもなく鎮所で卒した。年四十五。帝は深く悼み、諡を忠襄と賜った。方瑛は生まれつき英邁で古の兵法に通じ、かつて練兵法および陣圖を上呈し、老将の多くがこれを称えた。人となりは清廉温和で功を誇らず、赴く先々を安静に鎮めたので、民は久しく忘れず慕った。
  • 子の毅が伯爵を嗣いだが、祖母をそそのかして叔父の瑞を不孝と誣告させ、爵を奪われ閒住のまま卒した。その子夀祥が嗣ぎ、正徳年間に貴州・湖廣の鎮守を歴任した。爵は明の滅亡まで伝わって絶えた。

陳友――方瑛の下での戦功と武平伯

  • 陳友は先祖が西域の人で、家は全椒にあった。正統の初めに千户となり、累進して都指揮僉事に至った。数年にわたり衞拉特への使いを務めて労があり、まもなく都指揮使に進んだ。
  • 正統九年(1444年)、寧夏の游撃将軍となり、總兵官黄真とともに烏梁海を撃って多くを獲、都督僉事に進んだ。まもなく塞外へ出て達哈布ら四百人を招いて帰服させた。
  • 景帝が即位すると都督同知に進み、湖廣・貴州の苖を征した。まもなく左㕘将として靖州の守備にあたった。
  • 景泰二年(1451年)、王來らとともに香爐山の賊を撃ち、萬潮山から入って大いに破り、湖廣に留まって鎮し、功を論じて右都督に進んだ。
  • 景泰四年(1453年)春、苖五百餘級を斬ったと奏し、景泰五年(1454年)にも苖三百餘を斬ったと奏したが、都指揮戚安ら八人が戦死しており、兵部は首級の功が事実でないと疑った。指揮蔡昇もまた陳友の欺きを奏したので、總督石璞に調べさせたところ、斬獲はわずか三、四十人で、将士一千四百人を失っており、罪に問うべきだとされた。詔して賊を殺して自ら償うよう命じられた。
  • 天順元年(1457年)、方瑛に随って天堂の諸苖を征し大いに獲た。左副總兵に充てられ、なお湖廣に鎮し、さらに方瑛とともに䝉能の残党を破り、召されて武平伯に封じられ、世襲の劵を賜った。
  • 保喇が辺を犯すと游撃将軍として安逺侯栁溥らに従って防ぎ、都指揮趙瑛らを率いて戦い、敵は敗れて逃げた。再び鎮番を犯したときもこれを撃退し、百六十人を捕らえた。まもなく将軍の印を佩び總兵官として寧夏の寇を討った。これより先、寇が大挙して甘州・涼州に侵入した際、栁溥および總兵衛潁らは防げず、陳友だけがいくらか戦果を挙げていた。ここに至って巡撫苪釗が諸将の失態を列挙したが、兵部は陳友の罪を免ずるよう請い、詔して栁溥らともども宥された。召還されて侯に進み、卒した。
  • 爵は子に伝わり、孫の綱に至った。𢎞治年間、綱が陳友への贈官と諡を請い、詔して沔國公を贈り、諡を武僖とした。綱は子の勲および熹に伝えた。嘉靖年間、吏部は陳友の苖征討の功に濫りな冒認が多いとして襲爵の停止を請うたが、帝は従わなかった。熹の子の大䇿がふたたび嗣ぎ、明の滅亡まで伝わって絶えた。