湖廣・貴州の鎮守
- 蕭授は華容の人。千戸として成祖の挙兵に従い、都指揮同知に至った。永樂十六年(1418年)、右軍都督僉事に抜擢され、總兵官として湖廣・貴州に鎮した。
- 宣徳元年(1426年)、鎮逺・卭水の蠻銀總が乱を起こし、撫定に赴いた指揮祝貴が殺されたので、蕭授は都指揮張名を遣わして破り斬らせた。
- 貴州宣慰の管轄下にある乖西・巴香ほか諸洞寨は、山や竹藪が深く険しく、諸蠻が入り混じって住み、他部を攻め掠め官軍を傷つけ民の墓を暴いていた。昆阻・比など諸寨も険阻を頼んで賦を納めなかった。宣徳二年(1427年)、蕭授は都指揮蘇保を遣わして宣慰宋斌と合わせ昆阻・比の寨を攻め破らせ、追撃して僭称の王以下数百人を斬った。乖西の諸蠻はみな震え上がって帰順した。
- 水西の蠻阿閉妨宜が乱を起こすと、蕭授は近隣の寨の酋長と結んで計略でこれを誅した。しかし西堡の蠻阿骨らが寨底・豐寧・清平・平越・普安の諸苖とふたたび集まって寇をなし、四川の筠連の諸蠻も呼応した。蕭授は捕らえつつ撫し、諸蠻は前後して命に従ったので、勅命を承けてこれを赦し、豐寧の酋長は悪事を重ねていたので械につないで京師へ送り、誅に伏させた。
- 宣徳七年(1432年)、安隆の酋長岑俊を諭して降らせ、さらに辰州の蠻を討ってその酋長八十を捕らえ、斬った首は数えきれなかった。兵を移して江華の苖を撃ち、富川の山賊を討ち、前後して破り捕らえた。
- これより先、貴州の治古・答意の二長官司の苖がしばしば出て掠めたので、蕭授は二十四の堡を築いてその地を囲み、兵を分けて守らせ、賊は思うようにできなくなった。久しくして酋長の呉不爾が官軍の少ないのを窺ってまた清浪を掠め官吏を殺したので、蕭授は張名を遣わして撃破させた。賊は湖廣の境へ走って生苖と結び、勢いを盛り返したので、蕭授は黔(貴州)・楚(湖廣)・蜀(四川)の軍を発して道を分けて討ち、竿子坪へ進軍して呉不爾を誅し、斬首五百九十餘級、賊はことごとく平らいだ。
- 宣徳九年(1434年)、都匀の蠻が乱を起こし廣西の賊を引き入れて掠めたので、蕭授は指揮陳原・顧勇を遣わして道を分けて迎え撃たせ、賊首の韋萬良らを捕らえ、合江の蔡郎ら五十餘寨を降した。
- 英宗が即位すると征蠻副將軍の印を佩びて従来どおり鎮守を命じられ、蕭授が老齢であることを考慮して都督僉事呉亮を副とした。
- 正統元年(1436年)、普定の蠻阿遲らが叛いて僭称して王を名乗り、四方に出て攻め掠めたので、蕭授は顧勇らを遣わしてその巣を衝いて破らせた。また廣西の䝉顧十六洞が湖廣からの逃亡民と集まって蜂起したので、蕭授は兵を督して包囲し、再度の戦でその酋長をことごとく捕らえ斬り、残党も誅された。勝報が届いて右都督に進んだ。
- 蕭授は上言して、靖州は廣西と境を接し常に苖の害に苦しんでおり、永樂・宣徳のころは数萬石の糧を蓄えて軍事に備えていたが、近年は蓄えが少なく、事があってから人夫を徴発して輸送するので賊に先に察知されて取り逃がす、清浪・靖州の二衛にそれぞれ五萬石を増し蓄えれば急場に備えられる、と述べ、可とされた。
- 正統四年(1439年)、貴州の計沙の賊苖金蟲・苖總牌が紅江の生苖を糾合して乱を起こし、統千侯・統萬侯を僭称した。蕭授は兵を督して計沙に至り、都指揮鄭通を分遣して三羊洞を攻め、馬□(底本欠字)に黄栢山を攻めさせて大いに破った。呉亮は蒲頭・紅江まで追撃して總牌を斬り、千户の尹勝が金蟲を誘い出して斬った。これにより生苖はことごとく降った。
- 蕭授は沈着で計算に長け、裨将・校尉の才をそれぞれ生かし、軍の統率は厳正であった。鎮逺侯顧成が没して以後、諸蠻が各地に屯結し、官軍が討っても功がなかったが、蕭授は在鎮二十餘年、その規画の多くは顧成に基づきつつ、時とともにいよいよ練れて威信が広く行き渡り、寇が起こればたちまち滅ぼしたので、前後の諸帥も及ばなかった。功を論じて左都督に進んだ。
- 同正統四年(1439年)六月、召還されて老齢を理由に致仕したが、まもなく起用されて右府の事務を執り、正統十年(1445年)に卒した。臨武伯を贈られ、諡は靖襄。
呉亮――蕭授の副将
- 呉亮は來安の人。永樂初に旗手衛指揮僉事となり、宣徳年間に湖廣都指揮僉事を署理し、まもなく右副總兵として王瑜とともに漕運を監督した。
- 英宗の初め、新淦の賊を討って功があり、累進して都督僉事となり、蕭授の副として湖廣・貴州に鎮した。普定の蠻を破って都督同知に進み、計沙の苗を平らげて右都督に進んだ。
- 方政が麓川で戦死すると、呉亮は召還されて京へ戻り、副總兵として兵五萬を率いて討伐に赴くよう命じられた。雲南に至ると賊の勢いはいよいよ盛んで、金齒の㕘將張榮が敗れたのを救わなかった罪に問われて逮えられ獄に下り、都督僉事に左遷された。それでも征南副將軍の印を佩びて湖廣・貴州に鎮し、四川の都掌蠻を討ち平らげた。まもなく召還されて右府の事務を執り、正統十一年(1446年)に卒した。
- 呉亮は容貌が堂々とし、性は寛やかで簡素、殺戮を好まず、赴く先々で蠻人が懐き従った。書を好み、老いても書物を手放さなかった。