明史卷一百六十六 列傳第五十四 山雲

出自と宣徳年間の広西鎮定

  • 山雲は徐の人。父の青は百户として成祖の挙兵に従い、功を積んで都督僉事に至った。山雲は容貌が堂々として智略に富んだ。
  • はじめ金吾左衛指揮使を襲い、たびたび塞外への出征に従って功があった。当時、幼軍二十五所が府軍前衛に属していたが、衛を掌る者が任に堪えなかったので、あらためて山雲と李玉ら五人に統轄させた。
  • 仁宗が立つと行在中軍都督僉事に抜擢された。宣徳元年(1426年)、北京行都督府に移り、都御史王彰とともに山海闗から居庸闗まで関所を巡視し、便宜に応じて処置する権限を与えられた。帝が樂安を親征した際は、召されて鄭王・襄王を輔けて留守にあたった。
  • 翌宣徳二年(1427年)、栁州・慶逺の蠻韋朝烈らが臨桂ほか諸縣を掠めた。当時、鎮逺侯顧興(顧興祖の誤りか)が邱温を救援しなかった罪で逮えられており、公侯・大臣が山雲を推挙し、帝もかねて彼を知っていた。
  • 宣徳三年(1428年)正月、征蠻将軍の印を佩び總兵官として現地に鎮した。着任して韋朝烈を討ち破った。賊は山頂に拠り、山は険峻で、藤に木を掛け石を積み上げてあり、官軍が近づけば藤を切って落とすので誰も近寄れなかった。山雲は夜半に牛羊の角に火を束ねて縛りつけ、金鼓を鳴らしながらその後ろから賊に向けて追い立てた。賊は官軍が来たと思って急いで藤を切ったので、夜明けには木石が尽き、兵は喊声を上げて登り、ことごとく破った。南安・廣源の諸蠻も皆下った。
  • 同年の夏、忻城の蠻譚團が乱を起こし、山雲はこれを討って捕らえた。
  • 宣徳四年(1429年)春、栁・潯の諸蠻を討ち平らげた。その秋、雒容の蠻が出て掠めたので指揮王綸を遣わして破らせたが、山雲は王綸の功を上申するとともに、良民を殺した罪を弾劾した。帝は王綸を宥したが、内心で山雲を重んじた。
  • 廣西は韓觀の死後、諸蠻がしだいに横暴になっていた。山雲は廣西の兵が少ないので貴州の兵を留めて用い、前後して潯・栁・平樂・桂林・宜山・思恩の諸蠻を討ち平らげた。
  • 宣徳九年(1434年)、慶逺・鬱林の苖・猺は大きく痛めつけなければ服さないとして援兵を請い、詔して廣東の兵千五百人を増派させた。山雲は道を分けて討伐し、捕らえ斬ることはなはだ多く、さらに指揮田真を遣わして大藤峽の賊を攻め破らせた。
  • 山雲は在鎮中に前後十餘度の大戦を行い、斬首一萬二千二百六十、降した賊酋三百七十、奪還した男女二千五百八十、築いた城堡十三・舖舍五百に及び、磚を焼き石を切り出して城壁を高く厚くした。これ以来、猺・獞は姿を消し、住民は安んじた。功を論じて都督同知に進み、璽書を賜って労をねぎらわれた。

清廉と正統年間の献策、そして死

  • 山雲は謀りごとに長け勇があって深く落ち着き、清潔で不正な利を取らず、賞罰は公正で号令は厳しく、士卒と苦楽を共にし、機に臨んで応変し、戦えば勝たぬことがなかった。
  • 廣西の鎮帥が着任すると土官が贈り物を献ずるのが慣例で、帥がこれを受ければたちまち弱みを握られた。山雲は着任早々、府の下役の鄭牢が剛直だと聞いて呼び出し、「贈り物は受けてよいか」と問うた。鄭牢は「潔い衣を身に着けても、一度汚れれば洗い落とせません。将軍はいま新しい潔い衣です」と答えた。山雲が「受けなければ相手が疑うだろう、どうする」と言うと、鄭牢は「賄を貪れば法では死罪です。将軍は天子の法を畏れず、土地の夷を畏れるのですか」と答えた。山雲は「もっともだ」と言い、贈り物をすべて退けて厳しく統御した。これにより土官は畏服し、徴発に遅れる者がいなくなった。
  • 山雲は行く先々で里の長老に事情を尋ね、善良な者を撫し、無実の罪を調べたので、土地の人はみな彼を慕った。
  • 英宗が即位したころ、山雲は落馬して股を痛めた。帝は医者を急ぎ遣わして診させ、山雲は病を理由に交代を請うたが、手厚い詔をもって許されず、右都督に進んだ。
  • 正統二年(1437年)、次のように上言した。潯州は大藤峽の諸山と入り組んでおり、猺の宼が出没して近傍の田を占拠して耕している。左江・右江の土官の所属地は人が多く田が少なく、その狼兵は日ごろ勇猛で賊に畏れられている。田州の土兵を山に近い地に割いて屯田させ、境を分けて耕し守らせれば、賊の出入りを断って数年のうちに賊は必ず立ち行かなくなる、と。可とされた。以後、東南に急変があると狼兵を調発するようになったのは、これに始まる。
  • 翌正統三年(1438年)冬、鎮所で卒した。懷逺伯を贈られ、諡は忠毅。長子の俊が府君前衛(府軍前衛の誤りか)指揮使を襲った。廣西の人は山雲を慕ってやまず、祠を立て像を作って祀った。
  • はじめ韓觀が廣西に鎮したとき、殺戮をもっぱらにし、慶逺の諸生が出迎えたのを「これは皆、賊が我らを偵察しているのだ」と言ってことごとく斬った。山雲は公平寛大で、参佐に罪があれば必ず上申し、みだりに人を殺さなかったが、人もまた敢えて法を犯さなかった。鄭牢はかつて韓觀にも仕えており、韓觀が酔ってすぐ人を殺そうとすると、そのつど押しとどめ、醒めてから申し上げた。鄭牢は士大夫に重んじられたが、結局は下役のまま生涯を終えた。