出自と洪武年間の広西平定
- 韓觀は字を彦賓といい、虹の人で、髙陽忠壯侯韓成の子である。舍人として宿衛にあたり、忠実で慎み深いことを太祖に認められ、桂林右衛指揮僉事に任じられた。
- 洪武十九年(1386年)、栁州・融縣一帯の諸蠻を討ち平らげ、累進して廣西都指揮使となった。
- 洪武二十二年(1389年)、富川の蠻を平定し、靈亭千户所を設けた。
- 洪武二十五年(1392年)、賓州・上林の蠻を平定した。
- 洪武二十七年(1394年)、湖廣の兵と合わせて全州・灌陽の諸猺を討ち、千四百餘人を斬った。
- 翌洪武二十八年(1395年)、宜山ほか諸縣の蠻を捕らえ、その僭称の王以下萬户までを含め二千八百餘人を斬った。
- 征南左副將軍として都督楊文に従い、龍州の土官趙宗夀を討った。宗夀が罪に服すると、兵を移して南丹・奉議・都康・向武・髙勞・上林・思恩・都亮の諸蠻を征し、前後あわせて萬餘級を斬獲した。
- 韓觀は軍中に育って勇略があったが、性質は荒く激しく、誅罰に手心を加えず、下した命令は山のように動かないので誰も犯そうとしなかった。当時、諸蠻が各地で蜂起して郡縣を掠め守吏を殺し、勢いが盛んであったが、将士は韓觀の軍法を恐れて争って死力を尽くした。韓觀は捕らえた賊を必ず極刑に処し、時おり一、二人だけを放って諸蠻に伝えさせたので、蠻は肝をつぶし、境内は安定した。
- 洪武二十九年(1396年)、召還されて都督同知に進んだ。翌洪武三十年(1397年)、ふたたび楊文に従って吉州および五䦕の叛いた苖を討ち平らげ、顧成とともに水西の諸蠻の堡を討ち平らげた。帰還して左府の事務を管掌した。
建文・永樂年間の広西と交阯
- 建文元年(1399年)、徳州で兵を練り燕師(成祖の軍)を防いだが、戦功はなかった。成祖が即位しても任用は従前どおりで、江西へ赴いて軍を練り城守にあたらせ、あわせて廣東・福建・湖廣の三都司を節制させた。
- 廬陵の民が山澤に集まり騒いだ際、帝は兵を用いたくないとして行人許子謨に敕書を持たせて招諭させ、韓觀に現地で撫定させた。韓觀が着くと民は皆もとの生業に戻り、璽書を賜って労をねぎらわれた。
- 征南将軍の印を佩び、廣西に鎮して兩廣の官軍を節制するよう命じられた。帝は韓觀が殺しを好むのを知っており、璽書を賜って戒めた。趣旨は「蠻民は叛きやすく服しにくい。殺せば殺すほど治まらない。卿は鎮に赴いたら懐柔に努め、みだりに殺戮してはならない」というものであった。
- ちょうど諸蠻がまた叛いたので、帝は員外郎李宗輔に敕書を持たせて招いた。韓觀は大いに兵を並べて今にも発する構えを示したうえで使者を李宗輔に同行させ、桂林の蠻で生業に復した者は六千家に及んだ。ただ思恩の蠻だけは帰服せず、慶逺・栁・潯の諸蠻が吏民を殺し掠めていたので、上章して討伐を請うた。
- 永樂元年(1403年)、指揮葛森らとともに理定ほか諸縣の山賊千一百八十餘を斬撃し、その酋長五十餘人を捕らえて斬り、さらしものにした。掠われた男女は民に返し、逃散した者を撫して集めた。
- 翌永樂二年(1404年)、都指揮朱輝を遣わして宜山・忻城の諸山寨を諭して降らせた。荔波の猺は震え上がって編户(正規の戸籍民)にしてほしいと願い出、帝が韓觀に撫定を委ねると、八十餘洞がすべて帰附した。
- 翌永樂三年(1405年)、潯・桂・栁の三府の蠻が乱を起こし、いったん撫定されたのちまた叛いたので、朱輝に一部の兵を与えて破らせた。蠻が大いに恐れたところへ朝廷が郎中徐子良を遣わしたので、ついに降り、掠った人・畜・器械を返した。
- 永樂四年(1406年)、大々的に兵を発して安南を討つにあたり、韓觀に方略を立てさせ、粟二十萬石を輸送して軍を養わせた。さらに大理卿陳洽とともに土兵三萬を選んで太平に集結させ、あわせて安南の賊中の動静を偵察させた。まもなく大軍に従って憑祥を発し坡壘闗に至り、麾下の軍を闗の下に営させ、木を伐って橋梁を造り軍糧を供給した。安南が平定されると、交阯への路次にある諸堡の措置を命じられた。
- ところが栁・潯の諸蠻が韓觀の出征に乗じてまた叛いた。永樂五年(1407年)、韓觀が軍を返して栁州に至ると賊は風を望んで逃げ隠れたので、秋の涼しくなるのを待って深く攻め入りたいと請い、あわせて援兵を請うた。帝は使者を遣わして湖廣・廣東・貴州の三都司の兵を発し、また新城侯張輔に敕して都督朱廣・方政に交阯征討の兵を率いて協力させた。
- 同年十月、諸軍が集まり道を分けて討伐した。韓觀自身は貴州・兩廣の兵を率いて栁州から馬平・來賓・遷江・賓州・上林・羅城・融縣を攻めていずれも破り、象州で軍を合わせてさらに武宣・東鄉・桂林・貴平・永福へ進み、斬首萬餘級、捕虜萬三千餘人を得た。諸蠻はふたたび鎮まり、勝報が届くと帝はこれを嘉した。
- 永樂九年(1411年)、征夷副将軍を拝し、もとの印を佩びたまま總兵として交阯に鎮した。翌永樂十年(1412年)、また粟を輸送して張輔の軍に供給するよう命じられた。張輔が再度出師して交阯を平定した際、韓觀はもっぱら糧秣の輸送を主管して将としては働かなかったため、功績が目立たなかった。
- 韓觀は廣西に長く在って威が南中に震い、蠻人は恐れ入って命を奉じた。後任者のうち山雲を除いては誰も及ばなかった。
- 永樂十二年(1414年)九月に卒し、子はなかった。宣徳二年(1427年)、保定伯梁銘が韓觀の南京の旧宅を賜りたいと奏し、帝は許したが、韓觀の妻がそこに住んでいると聞くと「韓觀は功臣である。没したからといって奪ってよいものか」と言って許さず、有司に別の邸宅を梁銘に賜らせた。