明史卷一百六十六 列傳第五十四 李震

湖廣・貴州の総兵と興寧伯

  • 李震は南陽の人。父の謙は都督僉事。李震は指揮使を襲った。
  • 正統九年(1444年)、烏梁海征討に従って功があり、都指揮僉事に進んだ。のち王驥に従って麓川を平らげ、都指揮同知に進んだ。
  • 景帝が即位すると貴州右㕘将となり、偏橋で苖を撃って破った。景泰二年(1451年)、王來に従って韋同烈を征し、鎖兒流源の諸砦を破って千六百人を捕らえ斬り、ともに香爐山を落として韋同烈を捕らえ、都指揮使に進んで靖州を守った。まもなく罪に坐して召還された。
  • 方瑛が苖を討つにあたり李震を随行させたいと請い、詔して功を立てて罪を贖うことを許された。方瑛に従って天堂の諸苗を大いに破り、なお左㕘将となった。方瑛が銅鼔の諸賊を平らげたとき、李震も武崗へ進んで牛欄など五十四砦を落とし、斬獲が多く、都督僉事に進んだ。
  • 天順年間、また方瑛に従って貴州東部の苖千把豬を平らげた。方瑛が卒すると、そのまま總兵官としてその後を継ぎ貴州・湖廣に鎮した。
  • これより先、麻城の人李添保が賦を滞納して逃れ苗の中に入り、唐の太宗の後裔と偽称して衆萬餘を集め、王を僭称して武烈と建元し、遠近を掠めていた。李震が進撃して大いに破ると、李添保は貴州の鬼池の諸苖の中へ逃げ込み、さらに諸苗を誘って掠めさせたが、李震はこれを捕らえて京師へ送った。まもなく西堡の苖を破った。
  • 天順五年(1461年)春、城步の猺・獞を討伐し、横水城・溪莫宜・中平の諸砦を攻めていずれも破り、そのまま廣西の西延まで進撃し、總兵官過興の軍と合流して十八團の諸猺を落とした。前後に捕らえ斬った者は数千人。その冬、李震はもっぱら湖廣に鎮するよう命じられ、李安が總兵として貴州を守った。
  • 翌天順六年(1462年)夏、軍を率いて錦田・江華から雲川・貴嶺・横江の諸砦に至り、猺を破って二千八百餘人を捕らえ斬った。
  • 天順七年(1463年)冬、苖が赤谿・湳洞長官司を占拠したので、李震は李安と道を分けて進み、賊の首領飛天侯らを斬り、二百砦を破って長官司を回復し、都督同知に進んだ。
  • 翌天順八年(1464年)冬、廣西の猺が湖南を侵し、夜に桂陽州へ入って大いに掠めたので、李震は兵を分けて追撃させ、続けて破り、千餘人を捕らえ斬った。
  • 成化改元(1465年)、守備靖州都指揮同知の莊榮が「貴州の黎平ほか諸府は湖廣の五開ほか諸衛に近接しており、大将が総べなければならない」と奏したので、あらためて李震に貴州の鎮も兼ねさせた。まもなく賊首の苖蟲蝦を捕らえた。
  • 荆襄の賊劉千斤・石和尚が乱を起こしたので、李震が進んで討ち、賊はたびたび敗れた。勝ちに乗じて梅溪の賊の巣に追い迫ったところ官軍は不利となり、都指揮以下の戦死者三十八人を出し、詔して白圭らとともに厳しく責められた。大軍が到着すると、李震は南漳から進兵して合撃し、大いに破って賊は平らいだ。功を論じて右都督に進んだ。
  • 当時、武崗・沅・靖・銅鼓・五開の苗がまた蜂起し、貴州からも警報が届いた。李震は「貴州はやはり遠隔の統制が難しい」として湖廣専任を請い、許された。そこで兵を返して銅鼓・天柱から四道に分かれて進み、続けて賊を破って清水江まで至り、苖を道案内として賊の地の奥深くへ入り、二か月の間に八百の巣を破り、一萬三千の廬舎を焼き、三千三百を斬獲した。桂陽を掠めた廣西の猺も三千八百餘を撃ち斬った。この時期、李震の威名は西南に轟き、苗獠は風を聞いて畏れ、「金牌李」と呼んだ。
  • 成化七年(1471年)、項忠とともに流賊李原を討ち平らげ、流民九十萬人を招撫し、荆襄はこうして安定した。その経緯は項忠の伝に詳しい。
  • 成化十一年(1475年)、苗がまた武崗・靖州を犯して湖湘が大いに騒いだので、李震は巡撫劉敷らとともに五道に分かれて進み、六百二十餘砦を破り、八千五百餘人を捕らえ斬り、賊の妻子を萬単位で獲た。功を論じて興寧伯に封じられた。当時、武靖侯趙輔・寧晉伯劉聚もいずれも功で封じられ、論者の多くはこれを謗ったが、李震だけは功が最も高く、異論を唱える者がなかった。
  • 㕘将の呉經は李震と仲が悪く、その弟の千户呉綬は汪直の腹心であった。呉經が呉綬に頼んで李震を讒言させ、折しも汪直が項忠を陥れようとしていた際に李震にも言葉が及び、ついに逮えられて獄に下り、爵を奪われて左都督に降され南京で閒住となった。まもなく汪直が校尉を遣わして探らせ、李震がひそかに守備太監覃包と結んで賄賂をやりとりしていると言上した。帝は怒って汪直を南京へ赴かせ覃包らの罪を数え、覃包を孝陵の香番に降し、李震には京へ戻るよう命じた。汪直が失脚すると李震は訴えて爵を回復し、まもなく卒した。
  • 李震は湖湘に長く在って苖の事情に通じ、よく兵を用いた。当時の苗征討の功では、方瑛に次いで李震が最も大きい。しかし功を貪って昇進を求め、権要との交結を事としたため、結局それによって身を誤った。