出自と雲南への赴任
- 郭緒は字を繼業といい、太康の人である。成化十七年(1481年)の進士。楚府に使いしたときその贈り物を退けた。戸部主事を授かり、陝西で糧二十万を督送したとき、主管者が余剰があると告げたので、すべて返させた。歴任して雲南參議となった。
- はじめ孟密宣撫司が設けられたとき、実は木邦宣慰司の地を割いたものであった。その後、孟密の思揲がさらに境界の外に出て木邦の地二十七か所を侵した。たびたび返還を諭したが聴かなかったので、孟養宣撫の思禄の兵を動かして脅したところ、思揲はようやく侵した地を返した。
- しかしその際に孟養の兵を多く殺したので、思禄はこれを恨み、兵を発して金沙江を越え、木邦がもと孟密に割いた地十三か所を奪った。両酋の怨恨は止まなかった。
単騎で両酋を諭す
- 巡撫の陳金が詔を承けて、緒と副使の曹玉を遣わして諭させた。十日余りで金齒に着いた。參將の盧和が先に軍を統べて、占拠地から二日行程のところに宿営し、官を遣わして駅伝で諭させたが、いずれも抑留されて返答がなかった。和は恐れて軍を返し、干崖まで来て緒に遭い、事情を語って進むなと戒めた。緒は承知せず、玉は病を理由に辞退した。
- 緒はそこで単騎で数人を従えて行き、十日で南甸に至った。険しくて馬に乗れないので、茨を切り開いて徒歩となり、縄を引いて登った。さらに十日で大きな沢に至り、土官が象の輿で迎えに来たのでこれに乗って進み、毒霧の中を行き、泥と砂に足を取られながら進んだ。さらに十日で孟頼に至り、金沙江まではわずか二日行程となった。
- 手ずから檄を書き、人に持たせて江を渡らせ、朝廷が招き寄せる意を諭した。蛮人は顔を見合わせて驚き、「中国の使者がここまで来たのか」と言い、兵を発し象と馬数万を率いて夜に江を渡り、長い槊と強い弩でぐるりと幾重にも取り囲んだ。従う者は恐れて進まぬよう請うたが、緒は刀を抜いて叱り、「明日は必ず江を渡る。阻む者は斬る」と言った。
- 思禄は檄を受け取ってみると、禍福の道理がきわめて詳しく説かれており、また来た者がわずか数人だと聞いたので、酋長を遣わして命を聴かせ、そのうえで贈り物をした。緒はこれを退け、敕諭を出して宣示した。思禄も続いて来た。緒はまずその労をねぎらい、次にその冤の事情を明らかにし、そのうえで叛いたことを責めた。諸酋は聞いてみな平伏して万歳を呼び、侵した地の返還を申し出た。緒が先に抑留された使者について問い質すと、全員を出して返した。
- 和と玉が報を聞いて馳せつけたときには、すでに土地は返され服属していた。𢎞治十四年(1501年)五月のことである。
- 三年を越えた𢎞治十七年(1504年)、緒は四川督儲參政に抜擢された。武宗が即位して(1505年)はじめて雲南の功で俸を一級加えられ、翌正德元年(1506年)に致仕して帰った。