明史卷一百六十五 列傳第五十三 林錦

霊山での守り

  • 林錦は字を彦章といい、連江の人である。景泰初、郷貢から合浦の訓導を授かった。猺の賊が横行し、内外に備えがなかったので、錦が方略を条陳したところ、ことごとく機宜にかなった。巡撫の葉盛はこれを非凡と見て、檄して靈山縣の事を署理させた。
  • 城は賊に壊されていたので、錦は地形の便に応じて柵を作って守り、広く戦具を備えたので、賊は近寄れなかった。
  • 任期が満ちて去ると、官民は「公が去れば賊がまた来る。誰が防ぐのか」と言い、みな山に逃げ込んだ。盛が状況を報告し、詔でそのまま錦を知縣とし、駅伝で急ぎ赴任させると、民はまた帰ってきた。

霊山の賊平定と廉州

  • ちょうど飢饉の年で、諸々の猺の掠奪が一日も絶えなかった。錦は単騎で塁に赴き禍福を説いた。猺は感じ入って悟り、県に属する二十五部はみな命を聴いた。服さない者は討った。
  • 天順六年(1462年)、羅禾水で賊を破り、黄姜嶺で再び破り、さらに新莊で大破した。前後に千余級を捕らえ斬り、掠われた人口を取り返し、賊はすべて平らいだ。そこで柵をやめて土城を築いた。盛および監司がたびたびその才を推薦した。
  • 成化改元(1465年)、たまたま亷州が賊に陥れられたので、錦を試知府とした。この年もまた大飢饉で賊が四方に出て掠奪したが、錦は説諭して千余人を解散させ、教化に背く者を誅し、流亡した者を慰め集めたので、境内はことごとく平らいだ。
  • 成化四年(1468年)、上官がそろって推薦し、憲職に改め授けて、もっぱら欽州・亷州の群盗に備えさせるよう請うたので、按察使僉事とした。政務にいよいよ勤めた。
  • 成化十年(1474年)、敕を賜って特に表彰された。久しくして副使に進んだ。

営の設置と教化

  • 錦は管下でたびたび盗の警報があったので、恒久の計を立てようと考え、西に團河營を、南に新寮營を置き、別に洪崖營を設けて諸賊の出没する路を塞いだ。靈山の上城を改修し、あらためて高い城壁を五百丈にわたって築いたので、ついに堅固な町となった。
  • 成化十四年(1478年)、兵部がその撫輯の功を上申し、賞賜を受けた。
  • 錦は軍中にあっても教化を務めとした。靈山は鬼神を尚んだので、淫祠を禁じ、学校を修め、農桑を勧めた。廉州・欽州を治めたときも、いずれも学宫を整えて文教を振興した。
  • 人となりは誠実で、心の底まで見通せるようであったので、猺も蛮も愛して信じない者はなかった。行軍では士卒と苦楽をともにし、功があれば人に譲ったので、士の多くが死力を尽くした。赴任した各地で祠を建てて祀られた。