錦衣衛と門達への抵抗
- 毛吉は字を宗吉といい、餘姚の人である。景泰五年(1454年)の進士で、刑部廣東司主事に任じられた。この司は錦衣衛を管轄していた。
- 錦衣衛の卒は百官の隠し事を窺い、紙一枚を奏上するだけで相手を罪に落とせたので、公卿大夫で恐れない者はなかった。彼らは公然と請託を行い、役所を侮り、罪を得て刑部に下された者すら誰も打つことができなかった。吉だけは法を執って曲げず、犯す者があれば必ず重く懲らした。
- その長官の門達は寵を恃んで暴虐をきわめ、百官は道で遭うとおおむね馬を避けたが、吉だけは鞭を挙げ拱手して通り過ぎたので、達はひどく怒った。吉が病で朝を欠いたとき、錦衣の獄に下された。達は大喜びで屈強な卒を選んで大きな棒で打たせ、肉が潰れて骨が見えたが、死ななかった。
広東での賊討伐
- 天順五年(1461年)、廣東僉事に抜擢され、惠州・潮州二府を分巡した。豪族を厳しく抑えたので民は大いに喜び、交代の時期が来ると、そろって留任を訴えた。
- 程鄉の賊・楊輝はもと大賊の羅劉寧の一味であり、いったん撫され再び叛いて、一味の曽玉・謝瑩とともに寳龍・石坑の諸洞に分かれて拠り、江西の安遠を攻め陥れ、閩と廣のあいだを掠め、さらに程鄉を攻めようとしていた。
- 吉はその到着に先んじて壮士を募り、官軍と合わせて七百人を得て賊の巣に至り、まず石坑を破って玉を斬り、次いで瑩を撃ってその首を取り、さらに輝を生け捕った。諸洞はことごとく破られ、捕らえ斬った者は合わせて千四百人。勝報が届き、憲宗は吉を副使に進め、璽書で労をねぎらった。
高雷亷の巡視と戦死
- 高州・雷州・亷州の三府の巡視に移った。当時、民は賊に踏み荒らされ、数百里にわたって人煙が絶えていた。諸将はみな城を閉じて自守し、賊が来たと告げる者があるとかえって打ちすえ、賊中から逃げ帰った者があると賊に通じたと誣って撲殺していた。吉は憤りに堪えず、賊の平定を自らの任とした。
- 管下を巡視したとき、雷州海康の知縣・王騏――雲南太和の人である――は、日々義をもって民を励まし、賊が来るたびに奮って撃っていた。吉はその勇と節を壮として奨励した。ちょうど賊が村里を掠めたとの報があり、吉と騏はそれぞれ手勢を率いて撃ち破った。騏を雷州通判に遷すよう推薦したが、命を聞かぬうちに戦死した。同知を贈られ、その子を蔭で國子生とした。
- 成化元年(1465年)二月、新會が急を告げた。吉は指揮の閻華、縣事を掌る同知の陶魯を率い、軍一万を合わせて大磴に至って賊を破り、勝ちに乗じて追い、雲岫山に至った。賊の陣営から十余里、時はすでに夜半であった。諸将を召して三隊に分け、明け方に進軍することとした。
- ところが空が暗く、衆は時機を逸した。進んで戦うと、賊は営を棄てて山に逃げ上った。吉は潘百戸なる者にその営を占めさせたが、衆は競って財物を取った。賊が駆け下って百戸を殺し、華も馬が躓いて賊に殺された。諸軍はそこで潰えた。
- 吉は馬を止めて大声で軍を制止した。吏が吉に避難を勧めると、吉は「多くの者が殺傷されたのに、私だけ生きていられようか」と言った。言い終わらぬうちに、賊が槍を持って吉に迫った。吉は罵りながら戦い、手ずから一人を斬り、一人の腕を断ったが、力尽きて殺された。
- この日、雷雨がはげしく起こり、山谷がみな震動した。八日後にようやく遺体が見つかったが、顔は生けるようであった。事が報じられ、按察使を贈られ、その子の科を録して國子監に入れた。科はほどなく進士に及第し、雲南副使で終わった。
遺金の逸話と諡
- 吉が出軍するとき、千金を携えて労賞に充てるため驛丞の余文に管理させた。出納してすでに十分の三を使っていた。吉が死ぬと、文はその家の貧しさを憐れみ、残りの金を吉の下僕に渡して持ち帰らせ、葬儀の費用にさせた。
- その夜、僕の妻が突然、堂の中央に座って吉の声で語り、左右を見て「夏憲長を呼んでくれ」と言った。家中が大いに驚き、走って按察使の夏壎に告げた。壎が来ると、立ち上がって会釈し、「吉は国恩を受けながら不幸にも賊に殺された。今、余文が残った官の銀を吉の家に渡した。帳簿に照らして調べようがないとはいえ、これでは吉は地下で汚名を負う。急ぎ官に返して私を汚さないでほしい」と言った。言い終わると地に倒れ、しばらくして正気に返った。そこで金は官に返された。
- 吉が死んだとき年四十であった。のちに忠襄と諡された。