出自と卓異の挙、附学生の創始
- 楊瓚は蠡縣の人。永樂末年の進士。趙城知縣となり、考課は山西第一で、鳳陽知府に飛び越えて抜擢された。正統十年(1445年)、天下の官吏を大挙して考課したとき、初めて治績の卓越した者を挙げるよう命じられ、瓚と王懋・葉錫・趙亮らがこれに与った。
- 鳳陽は帝郷であり、勲臣や諸将の子孫に令を犯す者が多かった。瓚は戸籍を立てて出入りを調べるよう請い、これによってようやく規則が守られるようになった。
- 瓚は「民間の子弟には見込みのある者が多い」として、生員を増やし定員に限らないよう請うた。禮部は瓚の言を採って附学生を考試のうえ取ることとし、天下の学校に附学生があるのは瓚の議に始まる。
- 浙江右布政使に抜擢され、鎮守侍郎の孫原貞とともに陶得二の乱を平定した。景㤗二年(1451年)、瓚は湖州など諸府の官田の賦が重いとして、賦の軽い民田とならすよう請い、あわせて他人名義に付け替える弊を厳禁するよう求めた。詔によって原貞とともに督させ、田賦は公平と称された。久しくして在官のまま没した。
- 王懋は修武の人。永樂末年の進士。海豐知縣となり、のち西安知府に飛び越えて抜擢され、こちらも名声があった。
- 葉錫は永嘉の人。宣徳五年(1430年)の進士。呉縣知縣となり、卓異に挙げられて遷った。奸民が朝廷に訴え出て逮捕されようとしたとき、呉の人々が群れをなして闕に詣でて錫を讃えたので、従来どおり執務させ、誣告した者を罪に落とした。まもなく寧國知府に抜擢された。
- 趙亮は慶雲の典史で、これも挙に入り、同じく宴と賜与にあずかったので、当時の人は栄誉とした。任期が満ちて本縣の知縣に抜擢された。