出自と父の代わりの北遷
- 黄潤玉は字を孟清といい、鄞の人。五歳のとき母の病に侍して夜も寝ず、十歳のとき道で落とし金を見ても拾わなかった。永樂の初め、南方の富民を移して北京を充実させることになり、潤玉は父の代わりに行くと願い出た。官が幼すぎるとしたのに対し、「父が行けば日ごとに老い、私が行けば日ごとに成長します」と答えた。官はその言に感じ入って許した。
- 永樂十八年(1420年)、順天の郷試に合格し、建昌府學訓導を授けられた。父の喪が明けると南昌に移された。
御史・提学としての実績
- 宣徳年間、推薦によって交阯道御史に抜擢され、湖廣の按察に出て、両司以下の職に堪えない者百二十人を退けた。
- 正統の初め、提學官を推挙する詔が下り、楊士竒の推薦によって廣西僉事に抜擢され、學正を提督した。当時、寇が起こって用兵があり、ある都指揮がみだりに子女一万余口を掠奪したので、潤玉は弾劾して帰した。副使の李立が死罪に処した民が数百人に及んだのも、弁じて釈放させた。南丹衞は万山の中にあり、戍卒が瘴気にかかって死ぬ者が多かったので、奏上して広く開けた地に移した。
- 母の喪で帰り、湖廣で起用され、廵撫の李實の親族・知人二人を論じて罷免させた。實は憤って「潤玉は刑律に通じていない」と奏上し、含山知縣に謫された。老齢を理由に帰郷し、帰って二十年、八十九歳で没した。学者は南山先生と称した。