出自と地方官としての実績
- 劉實は字を嘉秀といい、安福の人。宣徳五年(1430年)に進士に挙げられ、三年後に庶吉士に選ばれた。正統の初め、金華府通判を授けられた。連年の旱魃と飢饉に際して租の免除を請い、あわせて売られた飢民の子女を買い戻して返した。義門の鄭氏は一族が大きくて自活できなかったうえ、馬を買い丁を出して山西の郵伝に供する負担で困窮していたが、これも實の言によって免除された。
- 母の喪で帰り、墓のかたわらに庵を結んで三年を過ごし、順天府治中として起用された。景㤗のとき、侍臣がその文学を推薦し、召されて『宋元通鑑綱目』の編修にあたった。實は人となり剛直で、意に沿わなければ高官貴人にも少しも譲らなかったが、いささか独りよがりで、同僚の編纂したものが不当だと見れば大笑して声が朝廷に響き渡り、人はこれによって彼を忌んだ。
南雄知府と獄死
- 天順の初め、元の任に戻り、天順四年(1460年)、南雄知府に抜擢された。商税は巨万にのぼり、従来はすべて守の懐に入っていたが、實は私することがなかった。中官が南雄に来て讒言をなし、府の僚属が挨拶に出たとき、實を留めて辱めた。民が争って前に出て實を取り囲んで連れ出したので、中官は恥じて、實を呼んで詫びようとしたが、實は行かなかった。中官は去って韶州に至り、韶州の人が「南雄の守はいまに朝廷に訴え出るだろう」と言うのを聞いて恐れ、急ぎ「實は敕を毀損した大不敬である」と誣奏したので、逮捕されて詔獄に下された。
- 實は獄中から上書して「臣は官にあること三十年、妻子を伴ったことがなく、粗食と破れ衣で、国家のために小民を愛養し、これを苦しめるに忍びませんでした。そのために朝廷の使いに逆らったのです」と述べた。帝は書を見て多少は納得し、釈放しようとしたが、實はついに獄中で病死した。實は苦節を守り、政務が繁忙でも読書を欠かさず、士大夫はその学行を重んじた。没したとき、南雄の人は哀しんで祠を建てた。孫の劉丙には別に伝がある。