出自と給事中としての諫言
- 夏時は字を以正といい、錢塘の人。永樂十六年(1418年)の進士。戸科給事中を授けられた。洪熙元年(1425年)、鈔法の改定が議されたとき、時は市場を乱すばかりで国用の助けにならないと力説した。疏は宮中に留められたまま、はたして鈔は大いに滞り、民に禁を犯す者が多く、議はついに沙汰やみとなった。帝は時の言を思い出し、皇太子に従って孝陵を祀るよう命じた。その道中、災害の地があれば太子に申し上げて粟を出して救済させた。留められて南京戸科の職を署理した。
- 宣徳の初め、一日に三度封事を上げて帝の意にかない、尚寳司を署理し、あわせて吏・禮・兵・刑の四科を管理するよう命じられ、七つの印を預かって滞る事務がなかった。後湖の黄冊の検査を命じられ、便宜十四か条を陳べた。邳・徐・濟寧・臨清・武清が旱魃のときには、時の請いによって官を遣わして救済させた。
地方官としての建言と晩年
- まもなく江西僉事に抜擢された。正統三年(1438年)、「いまの守令は多く刑を過酷に用いて無辜を傷つけ、和気を損ない綱紀を犯しています。御史と按察使の官に広く罪囚を調べさせ、冤罪・滞留を晴らし、法を曲げた官吏を逮捕・処断させてください」と奏し、認められた。參議に遷り、正統七年(1442年)、民を恤む六か条を奏して多くが実行された。
- 正統十二年(1447年)、大臣の推薦によって廣西左布政使に飛び越えて抜擢された。前後に上げた疏はさらに十余通あり、すべては採用されなかったものの、天下はその直言を壮とした。七十にならぬうちに致仕して帰り、没した。
- 僉事であったころ、知州の柯暹が撰した教民条約と均徭冊の書式を刊行して令とし、人々はみな便利とした。時は人となり清廉で義を好み、親が没すると墓のかたわらに庵を結び、不思議なしるしがあったという。没後、郷人が祀り、その祠を「孝亷」と名づけた。