出自と教官時代
- 彭勗は字を祖期といい、永豐の人。七歳のとき仏寺に入って僧を拝まず、強いられると「あれは衣冠も着けず肌をあらわに素足でいる。何を拝むものか」と叱った。永樂十三年(1415年)に進士に挙げられたが、親が老いていたので近い土地での奉養を願い、南雄府教授に任じられた。学舎の裏に祠があってしばしば怪光が現れ、学宫の弟子たちがこぞって祈っていたので、朂は撤去して焼いた。
- 任期を終えて建寧教授に補された。副使の王増が病んだとき、医者の許宗道が諸生の游亨を魘魅(呪詛)と誣告し、宿舎の傍らの童五郎の祠を証拠とした。増は怒って游亨の家の七人を重罪に置き、祠の近くに住む民四百家を獄に下した。朂は「游氏は巫者ではなく、五郎は邪神ではありません。もとは土地を寄進して城を築いた人です」と論じ、その事は郡志に載っていると述べた。増は驚いて図経を取り寄せて確かめ、大いに恥じて悔い、事は解決した。
- 建寧には朱子の旧宅に祠があったが祭祀がなかったので、朂は春秋の祭祀と子孫の徭役免除を上疏して請うた。また尊賢堂を創建して胡安國・蔡沈・真徳秀を祀り、諸生はこぞって学に向かった。
提学御史としての建議と晩年
- 正統元年(1436年)、楊士竒の推薦によって召されて御史を授けられた。当時、提學官が初めて設けられ、南畿の学校の督察を命じられ、教条を詳しく立てたので、士風は大いに振るった。
- 上疏して「国朝の祠祭は礼の書に載っております。修齋は梁の武帝に始まり、設醮は宋の徽宗に始まったもので、一切廃すべきです。庵院の建立を禁じ、僧尼への度牒の給付をやめてください」と述べた。また「真定・保定・山東の民が鳳陽・穎州に逃れた者が万を数えます。みな守令が災害を隠して過酷に取り立てたためです。手厚く救恤し、守令の考課は戸口の増減を優劣の基準としてください」と述べた。また南京の諸衛に武学を設けるよう請い、いずれも認められた。赴任先ごとに先賢の墳墓と祠を修めた。
- 母の喪で帰り、孫鼎が朂の後を継いだ。朂は起復して吏部考功郎中に改められ、山東副使として出た。土木の変ののち、たびたび兵事を論じたが、直言のため時勢に容れられず、致仕して帰郷した。
- 孫鼎は字を宜鉉といい、廬陵の人。永樂年間の挙人。松江教授を歴任し、正統八年(1443年)、楊溥の推薦によって御史となり、南畿の学政を管した。『本源録』を設けて諸生の善行を記録した。管内を巡るとき人に知らせず、輿一つで不意に到着し、諸生が挨拶に来るとすぐ門を閉ざして試験し、その日のうちに優劣を定めた。諸生が試験から帰るときには、すでに掲示が大通りに出ており、口利きをしようとする者は手の下しようがなかった。通州が旱魃と飢饉のときは、糧三千四百余石の免除を奏請した。
- 英宗が北狩したとき、鼎は試験を終えて諸生に「例では簪花の宴を張るところだが、いまは臣子が枕を戈にして寝るべき時である。諸君を不義に陥れるわけにはいかない」と言い、茶を出し、歩いて門まで送った。その後、闕に詣でて上書し、どこにでも用いられて死力を尽くしたいと願い出たが、返答はなかった。ほどなく親の高齢を理由に致仕した。知府の張瑄が上疏して「鼎の孝は曾參・閔子騫に追い、学は朱子・程子を継ぐものです。居論思の職に起用すべきです」と述べたが、帝は許さなかった。天順元年(1457年)、家で没した。