出自と貴州の治
- 胡拱辰は字を共之といい、淳安の人。正統四年(1439年)の進士で、黟縣知縣となって恵政があり、御史に抜擢された。時弊八件を疏陳した。父の喪で帰郷した。
- 景帝が即位すると、喪に服している科道官をすべて起復させる詔が下った。拱辰は出仕してしばしば疏を上り、将を選んで国を保ち、徳を修めて災を防ぐことを説いた。
- 貴州左參政として出た。白水堡の犵狫の頭目である沈時保が久しく教化に従わなかったので、拱辰が都督の方瑛に言って将を遣わし捕らえさせ、その地方が安定した。畢節に至って宣慰使の隴富の乱を平らげ、威名が辺境に行き渡った。
- 母の喪で去ると、御史が追って賄賂を受けたと弾劾した。事件は浙江の按察官に下されて訊問され、潔白が明らかになった。
尚書に至るまでと晩年
- 廣東に移され、廣西・四川の左右布政使を歴任し、いずれも寇を平らげる功があった。
- 成化八年(1472年)、南京右副都御史となり操江を提督した。十一年(1475年)、そのまま兵部右侍郎に遷った。皇太子の位が久しく空いていたので、尚書の崔恭らとともに冊立を請い、その言は甚だ切実であった。その年、また左副都御史に改まって糧儲を総理し、そのまま工部尚書に進んだ。財を節し事務を省いたので、人々はみな便とした。年齢を理由に帰郷を乞うた。
- 宏治年間、巡按御史の陳銓が「拱辰は退隠して十余年、生涯の清らかな節操は一日のごとくである。特別の礼遇を加えて臣下の節を励まされたい」と言上し、有司に月ごとに廩米二石、年ごとに隸卒四人を給する詔が下った。
- 正徳元年(1506年)、九十歳になったので行人を遣わして敕を届けて見舞い、羊と酒を賜り、廩米と隸卒を加賜した。三年(1508年)正月に卒し、太子少傳を贈られ、諡は莊懿。