出自と兵糧の監督
- 陳俊は字を時英といい、莆田の人。鄉試に第一で合格し、正統十三年(1448年)の進士となり、戸部主事を授かった。天津の諸衛の軍が草を採るのを監督し、新たに増えた額のうち三十五萬束の削減を奏した。
- 有力者が蘇州・松江の改折銀七十余萬両を横領していたので、俊が赴いて督したところ、数か月で納入を終えた。尚書の金濓が有能と認め、諸曹の上奏文書を掌らせた。郎中を歴任した。
- 天順五年(1461年)、兩廣の用兵に際して俊が兵糧を監督した。当時は州県が荒廃し、国庫は空であった。塩商の越境を緩め、引ごとに米二斗を加えさせたので、軍需に不足がなかった。母の喪でも帰郷を許されず、蛮が平定されてようやく帰った。
- 初め主事だったとき父の喪に赴き、香典を贈る者をみな断った。このときも文武の将吏が金を出し合って香典としたが、受け取らなかった。
戸部侍郎としての財務
- 成化の初め、南京太常少卿に抜擢された。四年(1468年)、戸部右侍郎に召し任ぜられた。俊は銭穀に練達し、四方の災害や辺鎮の急な飼料・兵糧の請願に対して、裁決はいずれも当を得ていた。尚書の楊鼎が深く頼りにした。
- 京師が大飢饉のとき、前後に太倉の粟八十萬石を出して平糶し、一石を六銭とした。有力者が時に乗じて利を貪ったので、俊は升斗を単位として買わせ、一石を超える分は売らないよう請い、飢民が救われた。
- まもなく河套での用兵が議され、俊に河南・山陝へ赴いて巡撫の諸臣と会し、飼料・兵糧を計画するよう敕し、帑金二十萬を出して助けた。俊は辺の倉庫が空で、その年も不作であり、榆林は道が険しく遠くて輸送が難しいことから、内地で金を用いて買い付け、西安・韓城・同官の間道を修めて輸送に便ならしめた。帰朝して俸給一級を加えられた。
尚書と時弊の陳言
- 吏部の左右侍郎を歴任し、九年の考満を経て南京戸部尚書に任ぜられた。まもなく兵部に改まって機務に參贊した。これ以前、參贊の任は兵部の専属ではなかったが、薛遠から始まり俊が継いだことで定制となった。しばらくして吏部に改まった。
- 二十一年(1485年)、星変を機に九卿を率いて時弊二十件を陳べ、いずれも極めて痛切であった。帝は多くを採納したが、権勢を持つ寵臣に不都合な件は結局行われなかった。
- 翌年、致仕を乞い、太子少保を加え、敕を賜って伝馬で帰らせる詔が下った。卒して諡は康懿。