明史卷一百五十七 列傳第四十五 黄鎬

平越の籠城

  • 黄鎬は字を叔髙といい、侯官の人。正統十二年(1447年)、進士として都察院で試補となり、半年たたぬうちに法律に明るいとして御史を授かった。
  • 十四年(1449年)、貴州を巡按していたとき、群苗がことごとく叛いて道が塞がった。靖遠伯の王驥らが麓川から引き揚げてくる軍に紀律がなく、苗がその後方を襲って官軍は大敗した。鎬は平越に向かう途中で賊に遭って危うく死にかけ、夜に城へ跳び込んだ。賊が包囲すると、議者は城を棄てて逃げようとしたが、鎬は「平越は貴州の咽喉である。平越がなければ貴州もない」と言い、諸将とともに固守した。密奏を竹筒に入れ、土地の者を募って間道から朝廷に援軍を乞い、あわせて王驥らが軍を失った状を弾劾した。景帝は保定伯の梁珤らに川・湖の軍を合わせて救援させ、包囲がようやく解けた。
  • 城が囲まれることすでに九年、草の根を掘り、弩や鎧を煮て食い、死者が折り重なったが、城はついに全うされた。鎬の功が最も大きかった。

地方歴任と南京戸部尚書

  • さらに留まって一年、巡按を務めた。しばらくして廣東僉事に遷り、浙江に移った。
  • 成化の初め、大臣の合同推薦によって廣東左參政に抜擢された。髙州・雷州・廉州は海に臨んで盗賊が多く、鎬が討ち平らげた。再び遷って廣西左布政使となった。
  • 右副都御史として南京の糧儲を総督し、吏部の左右侍郎を歴任した。十六年(1480年)、南京戸部尚書に任ぜられた。鎬は才識があって吏務に敏く、塩政を整えて弊害を除くことが多く、当時の評判が高かった。十九年(1483年)に致仕し、その途中で卒した。太子少保を贈られ、諡は襄敏。