明史卷一百五十七 列傳第四十五 柴車

出自と兵部での歴任

  • 柴車は字を叔輿といい、錢塘の人。永樂二年(1404年)、舉人から兵部武選司主事を授かり、員外郎を歴任した。
  • 八年(1410年)の帝の北征では尚書方賓に従って扈従した。帰って江西右參議に遷ったが、事件に連座して兵部郎中に降格された。岳州府知府として出、また郎中に戻った。
  • 宣徳五年(1430年)、兵部侍郎に抜擢された。翌年、山西巡按御史の張朂が大同の屯田の多くが有力者に占拠されていると訴え、車が赴いて調査し、田およそ二千頃を軍に返した。

甘肅の軍務協賛

  • 英宗の初め、西の辺境が不穏となり、車の廉潔と有能をもって甘肅の軍務の協賛を命ぜられた。軍の調発と給餉は、いずれも事の宜しきを得た。
  • はじめ多爾濟巴勒が凉州を侵したとき、副總兵の劉廣が軍を失いながらありのままを報告せず、かえって功を飾って恩賞を求めた。車が弾劾して廣を械送させ、車には金幣が賜られてその剛直が旌された。
  • 岷州の土官后能が功を偽って昇進と恩賞を得たので、車は加罪を奏請した。能がさらに赦免を請うと、車は繰り返しその不可を論じ、「詐って功を冒す者は能のような輩がじつに多い。臣はいま順次調査している最中である。ここで能を宥せば、何をもって衆を引き締めるのか。功なくして官が得られるなら、身を捐てて敵に死んだ者をどう遇するのか」と述べた。朝廷は能の請いを容れたが、車の賢を嘉して使者を遣わし労い賜った。
  • 正統三年(1438年)、多爾濟巴勒を破った功で俸給一級を加えられた。辺境にあって数十通の上奏をし、いずれも時弊を衝いた。同僚の多くは快く思わなかったが、車はいよいよ堅く主張を持した。

降人の処置と最期

  • かつてこう述べた。漠北からの降人を朝廷は京師に留め置き、厚く爵賞を与えているが、その心は結局こちらとは異なる。青托克托穆爾のような者は、昔その首長に従って帰順しながらほどなく叛いて去り、いま再び来た。後日また叛かぬとどうして知れよう。江南に移して同族から引き離すべきである、と。事は兵部に下され、河間・徳州に置くよう請い、帝は可とした。以後の降人はみなこの令によって処置された。
  • 屯田を調査し、有力者に占拠されていた分をことごとく洗い出して六百余頃を得た。
  • 四年(1439年)、兵部尚書に進み、參贊は元のままとされた。まもなく陝西の屯田の兼理も命ぜられた。翌年召還され、僉都御史の曹翼と一年ごとに交代して出鎮するよう命ぜられたが、その時期になって病が重くなり、大理寺少卿の程富を翼の代わりに遣わし、車には帰郷して療養するよう詔した。出発しないうちに、六年(1441年)六月に卒した。
  • 車が江西にいたころ、材木の伐り出しで閩に入り廣信を通った。廣信の長官は旧知だったので、ひそかに罌(かめ)一つを贈った。開けてみると白金であった。車は笑って「公は旧友のことをご存じない」と言い、受け取らなかった。辺塞で共に任にあたる者の多くは宴楽を豪気の証としたが、車はこれを憎み、酒肉を断った。その清廉孤高ぶりはこの類が多い。