明史卷一百五十七 列傳第四十五 鄭辰

御史としての査察

  • 鄭辰は字を文樞といい、浙江西安の人。永樂四年(1406年)の進士で、監察御史を授かった。
  • 江西安福の民が謀反を告発した件では、辰が赴いて調べ、誣告であることを明らかにした。福建で外国商人が人を殺した件でも辰が遣わされ、首謀者だけを処罰して他を釈した。
  • 南京で敕により報恩寺を建てた際、囚人一萬人を使役したが、人夫が朝廷を誹謗しており変事が起こりかねないとの流言が立った。辰が検証したところ事実無根で、一人も罪を得なかった。谷庶人が不軌を謀った件でも辰が調べ、その形跡をことごとく突き止めた。帝は方賓に「これこそまことの国家の耳目の臣だ」と語った。

山西按察使

  • 十六年(1418年)、山西按察使に飛び越えて任ぜられ、貪濁を糾弾して少しも容赦しなかった。
  • 潞州で盗賊が起こり、有司が叛乱と報告したので、兵を発して討伐する詔が下った。辰はちょうど公務で京師に朝しており、「民が徭役に苦しんでいるだけのことです。発兵は無用です」と奏し、帝はもっともとした。帰任すると先導の供回りを退け、自ら山谷に入って諭したので、盗賊はみな感泣して良民に戻った。
  • 禮部侍郎の蔚綬が粟を山海の軍に転送した際、辰が山西の民を率いて運搬に当たった。任務は民に重く、未納や欠損が多かった。綬は山海の地で貸し付けて償わせようとしたが、辰は「山西の民は貧しく気が荒い。急き立てれば変事が起きます。緩めて自ら融通させるほうがよい」と言った。その言に従ったところ、結局未納の者は出なかった。
  • 母の喪で帰郷すると、軍民が御史に留任を乞い、御史がそれを奏聞した。服喪を終えて旧任に戻った。

侍郎としての諸任

  • 宣徳三年(1428年)、南京工部右侍郎に召された。もともと両京の六部で堂官が欠けたとき、帝は廷臣に内任に堪える地方長官を推薦させ、蹇義らが九人を挙げたが、そのうち辰と邵玘・傅啓譲だけが正式に任ぜられ、他は試職にとどまった。
  • 英宗が即位すると(1435年)、大臣を分遣して天下の地方長官を考察させた。辰は四川・貴州・雲南に赴き、不適格な者を残らず奏して罷めさせた。雲南布政使の周璟が妻の喪中に後妻を娶ったので、辰は風教を損なうとして弾劾し、璟は免職となった。
  • 正統二年(1437年)、南畿・河南の飢饉の賑恤を命ぜられた。折しも河の堤防が決壊したので、都合のよいときに修築せよと命ぜられた。ある者が大名から渠を開いて諸水を衛河に通じ、灌漑と輸送に利しようと議したが、辰が民を労するだけで不便だと言い、この議は止んだ。
  • 兵部左侍郎に遷り、豐城侯李彬とともに宣府・大同へ兵糧を輸送した。鎮守都督の譚廣が命令を妨げたので弾劾し、事は成し遂げられた。
  • 八年(1443年)、中風を得て帰郷を願い、翌年卒した。
  • 辰は義を重んじ財を軽んじた。進士に及第したときには家産をことごとく兄弟に譲った。山西で同僚の杜僉事と言い争ったことがあったが、杜が没すると喪を取り仕切り、その妻子を送り届けた。