出自と吏部尚書就任
- 郭璡は字を時用、はじめの名を進といい、新安の人。永樂の初め、太學生から戸部主事に抜擢され、吏部の左右侍郎を歴任した。
- 仁宗が即位すると(1424年)詹事府少詹事を兼ね、名を璡と改めた。
- 宣宗の初め、行在の詹事府を掌った。吏部尚書の蹇義が老いて部務を退いたので、帝は璡を代えようとした。璡は重厚で勤勉機敏ではあったが学術に乏しく、楊士竒が「璡では務まらないおそれがある。経術に通じ古今を知る大臣を精選すべきです」と言い、帝は取りやめた。しかし一年余りで尚書となった。
人材登用と吏部の権の衰え
- 呂䝉正の夾袋、虞允文の材館錄の故事を諭され、璡はこれ以後、人材に意を用いるようになった。進士の李賢を見出して器量を認め、吏部主事に任じた。李賢は後に果たして名相となった。
- 当時、地方官が九年の考満を迎えると、その土地の民が闕下に押しかけて留任を乞い、そのたびに秩を加えて復任させていた。璡は虚偽の願い出があることを慮り、実地の確認を請うて許された。
- 璡は六卿の長ではあったが人望が軽く、また政務は内閣に帰していた。布政使から知府までの欠員は京官三品以上の推薦に委ね、さらに御史・知縣までも京官五品以上の推薦に委ねることとなり、要職の選抜はいずれも吏部と関わらなくなった。
- 正統の初め、左通政の陳恭が「古は諸官の任用がすべて選部(吏部)から出たので、職掌が専一で事の筋が一つであった。いま朝臣に各々知る者を挙げさせるのは、私的な依頼の門を開き、官を争う風潮を助長するおそれがある。これを断って一本化されたい」と言い、吏部に議させた。しかし□(底本欠字)は遜辞して当たろうとせず、この件は沙汰止みとなった。
弾劾と致仕
- 正統六年(1441年)、御史の曹恭が災異を理由に不適格な大臣の罷免を請うた。帝は科道官に協議させ、璡および尚書呉中・侍郎李庸ら二十人が弾劾された。璡らが自ら弁明し、帝は厳しく責めたうえで宥した。
- 璡の子の亮が賄賂を受けて人のために官職を斡旋したことが発覚し、御史孫毓らが璡を弾劾した。そこで璡は致仕させられ、王直が後任となった。