出自と衢州の治
- 郭敦は字を仲厚といい、堂邑の人。洪武年間に鄉舉から太學に入り、戸部主事を授かった。
- 衢州知府に遷り、恵政が多かった。衢の風俗では貧しい者が死んでも葬らず屍を焼いてしまったので、敦は厳しく禁じたうえで義阡(共同墓地)を設け、この習俗を改めさせた。民が淫祠に集まるのを禁じたところ敦が病み、民は禁を緩めるよう勧めたが聴かず、病もまた癒えた。衢州に七年在任した。
- 永樂の初め、連座して召還されることになり、耆老数百人が闕下に伏して留任を乞うたが叶わなかった。
内外の歴任
- 後に廷臣が敦の廉正を述べたので、召して監察御史に補した。河南左參政に遷り、陝西に転じた。
- 十六年(1418年)春、胡濙が敦には大臣の器量があると言上し、禮部右侍郎兼太僕寺卿に抜擢された。給事中陶衎とともに順天を巡撫した。二十年(1422年)、北征の兵糧輸送を監督した。
- 仁宗が即位すると(1424年)、大行の喪に斎宿しなかったとして太僕卿に降格されたが、まもなく戸部左侍郎兼詹事府少詹事に進んだ。
戸部尚書としての施策と死
- 宣徳二年(1427年)、尚書に進んだ。陝西が旱魃に見舞われ、隆平侯張信とともに諸事を整えるよう命ぜられ、実行すべき件は三司の官と協議して奏行することとされた。敦は未納の税の免除、貧民の賑恤、貪吏の考課と罷免、急を要さぬ事業の停止など十数件を請い、いずれも許された。一年余りで召還された。
- 戸部にあって改革が多かった。民の生業を奪った王田を廃し、民に開墾させて課税しないこととした。漕運については、民が瓜洲・儀真まで運び、そこから衛の兵卒が京師まで運ぶ方式を建議し、民は大いに便とした。
- 敦は親に孝、身の処し方は廉潔で、同僚に不義を行う者があれば厳しい顔色で接し、その者が悔いて謝るまでやめなかった。学問を好み、退庁後も書を手放さなかった。
- 六年(1431年)、在官のまま卒した。六十二歳。