明史卷一百五十七 列傳第四十五 劉中敷

出自と地方官

  • 劉中敷は大興の人、はじめの名を中孚といった。燕王が兵を挙げた際、諸生として城を守った功で陳留丞を授かり、工部員外郎に抜擢された。仁宗の監國のとき部の事務を代行させられ、今の名を賜った。江西右參議に遷った。
  • 宣徳三年(1428年)、山東右參政に遷り、左布政使に進んだ。実直・廉潔・静穏で吏民が畏れ慕った。大凶作の年には巡撫に進言して賦を三分の二減じさせた。

戸部尚書と度重なる下獄

  • 正統改元(1436年)、父の喪に服していたが奪情され、まもなく召されて戸部尚書に任ぜられた。帝は幼くして即位したため臣下に欺かれることを警戒して厳格を旨とし、宦官の王振がこれに乗じて威を立て、しばしば大臣の小さな過失を拾って帝に重い処罰を用いさせたので、大臣が獄吏の手に渡らぬ年はなかった。
  • 三年(1438年)、給事・御史をそそのかして中敷と左侍郎呉璽らを弾劾させ、下獄させた。のち釈されて職に復した。
  • 六年(1441年)、言官が中敷の専断を弾劾した。法司に内廷で合同審理させたところ流刑に当たったが、贖罪を許され、帝はとくに宥した。
  • その冬、中敷と璽、および右侍郎の陳瑺が、御用の牛馬を民間に分けて飼わせたいと請うと、言官が定めの法を乱すと弾劾した。三人とも下獄して斬に論ぜられたが、長安門外で首枷にかけられること十六日で釈された。
  • 衛拉特が入貢した際、馬・駱駝の飼料の数を問われて答えられず、また璽・瑺とともに斬に論ぜられて繋獄された。中敷は母の病のため特に帰省を許された。翌年冬、囚の処断の時期になると、法司の請いにより璽・瑺は辺境の守備に送られ、中敷は母の死を看取ってから改めて奏聞せよとされ、後に釈されて庶民となった。

景帝下の再起と子孫

  • 景帝が立つと(1449年)、戸部左侍郎兼太子賓客に起用された。当時は用兵の最中で、論功行賞が日々絶えなかった。中敷は「府庫の財には限りがある。切り詰めて緩急に備えるべきです」と言い、帝は喜んで容れた。
  • 景泰四年(1453年)に卒し、尚書を贈られた。中敷は淡泊な性質で、食事に二品を重ねず、五十年仕えて家に余財がなかった。
  • 子の璉は正統十年(1445年)の進士で、刑科給事中を授かり、累進して太僕寺卿となった。華美を恥じ、官にあって剛毅果断であった。遼東苑馬寺卿に左遷されて卒した。
  • 子の機は幼くして孝行があり、成化十四年(1478年)の進士で、庶吉士に改められた。正徳年間に張綵に代わって吏部尚書となったが、世評を理由に帰郷を乞うた。のち南京兵部尚書として機務に參贊した。流賊が長江沿岸を侵し、衆議で将を選ぶことになったとき、ちょうど都督の李昻が貴州で罷官となって来ていた。機はただちに召して任じたが、昻は朝命がないと辞退した。機は「私の受けた敕には『敕に載せていない事は便宜に任せる』とある。これが朝命だ」と言い、人々はその胆識に服した。致仕して帰り、卒した。