明史卷一百五十七 列傳第四十五 張夲

出自と帰順

  • 張夲は字を致中といい、東阿の人。洪武年間に國子生から江都知縣を授かった。
  • 燕王の軍が揚州に至ったとき、御史王彬が城に拠って抗戦したが守将に縛られた。夲は父老を率いて出迎え降った。成祖は、滁州・泰州の二知州である房吉・田慶成が率先して帰附したのを賞し、夲とともに揚州知府とし、現任の知府譚友徳と並んで府の政務に当たらせた。

工部・刑部と漕運

  • まもなく江西布政司右參政に抜擢された。永樂四年(1406年)、工部左侍郎として召されたが、事件に連座して免官となり、冠帯のまま職務を執らされた。翌年五月に復官した。
  • ほどなく上奏文の肩書きで「左」を「右」と誤記し、給事中に弾劾された。帝は夲を工部右侍郎に改めて授けることでその罪を宥した。
  • 七年(1409年)、皇太子の監國のもとで刑部右侍郎に奏請された。不正の摘発に長けていた。北河の漕運の監督を命ぜられると、自ら現地を見て回って日程を定め、舟の運行が滞ることがなかった。病を発すると、太子は狐裘・冠・鈔を賜り、医者を急派して診させた。
  • 十九年(1421年)、北征に備えて夲と王彰を兩直隸・山東・山西・河南に分けて遣わし、有司に車を造らせて輸送を監督させた。翌年(1422年)には夲に北征の兵糧輸送を監督させた。

兵部尚書としての建議

  • 仁宗が即位すると(1424年)、南京兵部尚書兼掌都察院事に任ぜられた。召見されて時政の得失を述べ、あわせて武備を厳しく整えるよう請い、帝は喜んで容れ、そのまま行在の兵部に留めた。
  • 宣徳の初め、工部侍郎の蔡信が軍匠の家族まで徴発して錦衣衛に隸属させたいと請うた。夲は「軍匠は二萬六千人、二百四十五の衛所に属し、匠役に出るのはさしあたりその一丁にすぎない。もし残らず取り上げれば、一家あたり三、四丁として十萬近くになる。軍伍が欠けるうえ人心が驚き騒ぐ」として不可とした。帝は夲の言を善しとした。
  • 漢庶人(高煦)征討では兵糧の調達に従った。庶人が捕らえられると、その配下を慰撫してまとめ、余党を記録するよう命ぜられた。軍政が久しく弊れ、悪辣な者が賄賂で軍籍を脱け、平民を引き入れて員数を埋めていたので、廷臣を四方に選んで遣わし是正するよう帝に言上した。
  • 当時、馬が畿内で大いに繁殖し、軍民が牧畜の負担に苦しんでいた。夲は山東・河南および大名などの諸府に分けて放牧するよう請うた。山東・河南の養馬はこれに始まる。
  • 晉王濟熿が不軌に坐して爵を奪われたとき、夲は命を奉じてその護衛軍を辺鎮に分散させた。

戸部兼掌と最期

  • 四年(1429年)、太子賓客を兼ねた。戸部が官田の租を減らしたために支出をまかなえなくなり、外官の俸給と生員・軍士の月給を減らすよう請うた。帝は軍士の困窮を思って減額を認めず、残りを廷議に下した。夲らが不可と主張して沙汰止みとなった。
  • 陽武侯薛禄が獨石の諸戍を築き終えると、夲が赴いて守禦の方策を検討し、帰って奏したところ帝の意に適い、戸部の兼掌を命ぜられた。
  • 夲は辺境の食糧不足を憂え、諸辺が近年豊作であることから、絲・麻・布帛を送って穀と交換するよう請うた。多い所で三、四十萬石、少ない所でも十萬石を得て、備蓄がにわかに満ちた。
  • 六年(1431年)、病没した。賻として三萬緡を賜り、葬祭は手厚かった。
  • 夲は廉直で節を守ったが、厳格に過ぎて寛恕が少なく、髙煦の一党を記録した際に、脅されて従っただけの者も多く罪を免れなかった。成祖が近臣を宴し銀器を一案ずつ賜ったとき、夲の案にだけ陶器を据えて「卿は窮張と呼ばれている。銀器など使いようがあるまい」と言った。夲は頓首して謝した。上に知られていることはこのようであった。