明史卷一百五十七 列傳第四十五 金純

出自と初任

  • 金純は字を徳修といい、泗州の人。洪武年間に国子監生となり、吏部尚書の杜澤の推薦で吏部文選司郎中を授かった。
  • 洪武三十一年(1398年)、江西布政司右參政として地方に出た。

治水と六部歴任

  • 成祖が即位すると、蹇義の推薦により刑部右侍郎に召された。北京の造営が始まろうとしていた時期で、湖廣での材木の伐り出しを命ぜられた。
  • 永樂七年(1409年)、北京への巡幸に従った。八年(1410年)には北征に従い、左侍郎に遷った。
  • 九年(1411年)、宋禮とともに會通河を治めるよう命ぜられ、あわせて徐亨・蔣廷瓚とともに魚王口の黄河故道を浚えた。もともと太祖が梁・晉の間で用兵した際、大將軍徐達に塌場口を開かせて泗に通じさせ、また濟寧西の耐牢坡を開いて曹・鄆の河水を引き、中原への漕運を通じさせていた。その後、故道は次第に塞がっていたので、このとき純が浚渫した。開封の北から水を引いて鄆城に達し、塌場に入って穀亭の北十里に出し、そこに永通・廣運の二閘を設けた。
  • 十四年(1416年)、禮部左侍郎に改まり、二か月後に尚書に進んだ。十五年(1417年)、北京巡幸に従った。十九年(1421年)、給事中葛紹祖とともに四川を巡撫した。
  • 仁宗が即位すると(1424年)工部に移り、数か月でまた刑部に移った。翌年には太子賓客を兼ねた。

繋獄と致仕

  • 宣徳三年(1428年)、純が病むと帝は医者を遣わして診させ、少し快くなると朝參を免じて療養しながら政務を執らせた。暑い時期に法司へ滞留した囚人の処理を命じた折、純が朝廷の貴顕としばしば酒宴を持ったことを言官に弾劾された。帝は怒って「純は病と称して朝参せずに私宅で宴を張ってよいものか」と言い、錦衣衛の獄に繋がせた。しかし老臣であることを思って釈し、太子賓客の兼職を解いた。八月、致仕を許されて去った。
  • 純が刑部にいたとき、仁宗は「法司は近ごろ罪を仕立て上げ、意見を述べた者がすぐ誹謗の罪に落とされる。まったく無意味なことだ。今後は誹謗の告発を取り上げるな」と諭した。純自身も寛大を心がけ、属僚に対してつねに、みだりに人を打ち据えてはならぬと戒めた。そのため純の在任中、獄中で病死する者がいなかった。
  • 正統五年(1440年)に卒し、山陽伯を贈られた。