順義伯
- 羅秉忠はもとの名を科爾羅領占といい、沙州衛都督僉事の琨齊□の子である。兄の訥格が父の職を襲いだのち、英宗はあらためて秉忠を指揮使として衛の事を協理させた。まもなく訥格が一千二百人を率いて内地に移ると、詔して東昌・平山の二衛に住まわせ、田・住居・什器を給し、撫恤するところがきわめて厚かった。訥格が卒すると秉忠が都指揮使となってその衆を代わって領した。
- 英宗が北狩し塞上に警報が多くなると、朝議は降人が機に乗じて変を起こすことを恐れて南方に移そうとした。折しも貴州の苗が乱れ、都督毛福夀が南征したので、そのまま秉忠を都督僉事に抜擢し、部下を率いて援け討たせた。戦功を積んで左都督に至り、天順の初めにはじめて姓名を賜わった。
- 曹欽が叛いたとき、畨官でこれに従う者が多かったので、秉忠もまた坐して下獄し家を籍没された。久しくして上章して自ら弁じ、ようやく釈された。
- 成化の初め、尚書の程信が山の都掌蠻を討ったとき、秉忠は逰擊將軍として従った。永寧に至ると兵を六道に分け、秉忠は金鵞江から進んで大いに破った。論功で順義伯に封ぜられた。十六年(1480年)に卒し、諡は榮壯。子孫は指揮使を世襲した。
史論
- 賛に曰く。明が興ると、諸々の䝉古は太祖の功徳を慕って内附を喜ぶ者が多く、姓名を賜わり官職を授けられた者は数え切れない。続いて成祖が遠図に意を鋭くして威武を輝かせると、(李)英・(呉)允誠・金忠らが衆を率いて属し、ついに爵に列し任を授けられて勲旧と肩を並べた。あるいは戦功によって自ら奮い、劵を賜わって封を受け、世に伝えて絶えなかった。跳梁して倔強する者と比べれば、順逆の違いはまことに明らかではないか。
- 土木以来、勢いは振るわず辺政は日々弛み、和碩・諳達の諸部が騒動して安寧の年がなかった。盛衰のゆえんはおおよそここに考えることができる。