靖安伯
- 和勇はもとの名を托克托博囉といい、和寧王阿嚕台の孫である。阿嚕台が衛拉特の托歡に殺され、子の諤博爾濟延が窮して帰順すると、宣宗は左都督を授け、京師に邸を賜わった。卒して勇が指揮使を襲ぎ、錦衣衛で俸を帯した。功を積んで都督僉事に至り、天順元年(1457年)、詔して同知を加えられ、姓名を賜わった。
- 久しくして、両廣に寇が多いので、逰擊將軍に充てられ降夷千人を統べて討伐に赴いた。当時、總兵の顔彪に将略がなく賊勢はいよいよ熾んであった。廣西巡撫の吳禎が降った者を殺して功を偽り厚い賞を得たので、彪もこれに倣って平民を殺して勝報とした。朝廷が彪の官を進め、勇も右都督に進んだ。まもなく師が久しく功なく、言官が失事した文武の将吏を弾劾し、詔して勇の俸を停めて為事官とした。
- 成化の初め、趙輔と韓雍が大藤峽の賊を征すると、詔して勇に部下を率いて従軍させた。その冬、賊を大いに破り、左都督に進んで禄百石を増された。
- 三年(1467年)、召されて效勇營を督して訓練した。まもなく上言した。「大藤夾の西では臣は趙輔と功を同じくしました。輔が京に還ったのち残賊がまた叛き、臣が自ら賊の巣を突いてその頭目を縛りその一党を誅し、掠われた男女四千人を還しました。今、輔はすでに伯に封ぜられましたのに臣はただ秩を進められただけです。陛下の憐察を仰ぎます」。憲宗は勇がふたたび戦功を著したとして、特に靖安伯に封じた。
- 十年(1474年)に卒し、諡は武敏、指揮使を世襲とされた。勇は性が廉直慎重で、両廣にあったとき諸将の多くが私腹を肥やす中、勇だけは何も取らなかった。当時の議論は……