西陲の名将
- 毛忠は字を允誠といい、もとの名を哈喇といい、西陲の人。曾祖の哈喇岱は洪武の初めに帰順し、行伍から起こって千戸となり戦死した。祖の拜達勒は哈宻征討に従ってやはり戦死した。父の寶は勇をもって總旗に充てられ永昌百戸に至った。
- 忠が職を襲いだのは二十歳のときで、腕力は人にすぐれ騎射を善くした。かつて太宗の北征に従った。宣徳五年(1430年)、庫森の叛寇征討で功があり、八年(1433年)、伊伯格勒山征討で少師知院となり、九年(1434年)に托歡山に出、十年(1435年)に黒山の寇を征し、いずれもその酋長を擒えてそれぞれ一階ずつ進み、指揮同知を歴任した。
- 正統三年(1438年)、都督蔣貴に従って多爾濟巴勒を征し、先登して陣を破り大いに獲て、都指揮僉事に抜擢された。十年(1445年)、労によって同知に進み、姓を賜わった。
- 翌年、總兵官任禮に従って沙州衛都督訥格の部落を収容して塞内に移し、都指揮使に進んだ。十三年(1448年)、師を率いて罕東に至り、訥格の弟で偽の祁王である索諾木本を生け捕りにし、あわせてその部衆を収め、都督僉事に抜擢された。ここではじめて忠の名を賜わった。まもなく右參將に充てられて甘肅を協守した。
讒言と復権
- 景泰の初め、侍郎の李實が漠北への使いから還り、忠がしばしば使者を遣わして衛拉特と通じていると言った。詔して捕らえて京に送り、着くと兵部がその罪を論じて死刑に処すことを請うたが、景帝は許さなかった。官を貶して福建で立功させることを請うと、そこで福建に遣わしたが官秩はもとのままとし、甘肅の守臣に命じてその家族を京師に移させた。
- 初め、忠が沙漠を征したとき畨僧の扎什琳心を捕らえて献じ、英宗は赦して誅さなかった。のちに衛拉特に逃げて額森に用いられ、忠を恨んで陥れようとし、忠が額森と通じていると言いふらしたのを、朝廷は察しなかったのである。塞外にあった英宗だけがこれを知っていた。
- 復辟するとただちに召し還した。忠は福建にあってもしばしば斬馘の功があったので、都督同知に遷り、右副(總兵)に充てられ兵を統べて甘肅を守った。陛見のとき慰諭がきわめて手厚く、玉帯と織金の幣衣を賜わった。
- 天順二年(1458年)、寇が大いに甘肅に入り、巡撫の芮釗が諸将の失事の罪を弾劾したが、部議は忠の功は罪を贖うに足るとして不問に付した。三年(1459年)、鎮畨で賊を破った功で左都督に進んだ。
- 五年(1461年)、保喇が数万騎で西寧・莊浪・甘肅の諸道を分けて掠め、涼州に入った。忠は一昼夜鏖戦し、矢が尽き力も疲れ、賊は来る者いよいよ多く、軍中はみな顔色を失った。忠は意気ますます盛んで将士を励まし、また死闘した。賊はついに勝てないと見、援軍も至ったので、そのまま囲みを解いて去った。忠はついに死力を尽くし、軍は還った。
- 七年(1463年)、永昌・涼州・莊浪の塞外の諸畨が辺患となり、忠は總兵官の衛潁と分かれて討った。忠がまず巴鄂爾の諸大族を破り、その贊咱瑪吉斯などの諸族で他の将が下せなかったものも、忠が撃ち破った。論功では忠はわずかに禄百石を増されただけで、潁のほうが世劵を得た。忠がこれを訴えたので、伏羌伯に封ぜられた。
石城の戦死
- 成化四年(1468年)、固原の賊満四が石城に拠って叛くと、詔して忠に軍を移して討たせた。總督の項忠らと賊の巣を挟撃し、忠は木頭溝から礮架山の下に直進して斬獲が多かった。賊がやや退くと、矢石をものともせず山の北と西の二峰を続けて奪い、項忠らの軍も山の東峰および石城の東西二門を陥とした。賊は大いに窮して向かい合って哭いた。
- ところが突然、濃霧が起こり、他の哨が煙を挙げて軍を引いたので、賊は力を合わせて忠を攻めた。忠もまた力戦してやまなかったが、流れ矢に当たって卒した。年七十五。従子の海と孫の鎧が進み出て忠を救おうとしたが、これも死んだ。
- 忠は将として紀律を厳しくし、よく士を撫した。その死にあたっては、西陲の人で弔い哭する者が道に相連なった。事が聞こえ、侯を贈られ、諡は武勇、世劵を与えられた。𢎞治中、有司の言によって忠義祠を蘭州に建ててその理を表し、また巡撫許進の言によって武勇祠を甘州城の東に建て、春秋に祭を致した。
毛鋭――伏羌伯とその浮沈
- 孫の鋭が伯爵を襲いだ。成化中に南京を協守し、𢎞治の初めに出て湖廣を鎮し、両廣に改まって蠻賊を平らげ、たびたび功があり、いずれも璽書で奨励された。九年(1496年)、廣西で賊を破ったので歳禄二百石を増された。言官が鋭は邸舎を広く構え、私に大きな柵を造って畨商と通じていると弾劾したが、不問に付された。
- 思恩の土官岑濬が叛くと、總督の潘蕃とともに討ち平らげ、さらに賀縣の獞賊を討ち平らげ、官を加えられて太子太傅に至った。
- 正徳三年(1508年)、劉瑾が尚書の劉大夏を殺そうとして田州の処置が不適切であったことに坐せ、あわせて鋭を逮えて詔獄に下した。獄が成って加えられた官および歳禄五百石を取り消された。のちに瑾に賄して漕運総督に起用されたが、一年余りで瑾が誅され、弾劾されて罷免された。
- 六年(1511年)、盗の劉宸らが畿甸を荒らしたので、鋭と中官の谷大用に討伐を命じた。統べる京軍はみな驕り怠けて戦に慣れていなかった。翌年正月、長垣で賊に遇って戦い大敗し、身に傷を負い将印を失った。折しも許泰の援軍が至ってやっと免れた。言官がこぞって弾劾したが、大用と同事であったため結局は罪に問われなかった。
- 世宗が即位するとまた起用されて湖廣を鎮し、三年いて卒した。太傅を贈られ、諡は威襄。
- 子の江、ついで漢に伝わった。漢は嘉靖中に南京左府を掌り操江を提督し、漕運總督に改まったが着任しないうちに、給事中の楊上林が至るところで貪墨であったと弾劾し、詔して職を剥奪され逮問された。卒して子がなく、従子の桓が嗣いだ。卒して子の登が嗣ぎ、萬厯中に中軍府を掌ること二十年近く、さらに二代伝えて明(の滅亡に至った)。