明史卷一百五十六 列傳第四十四 焦禮

寧遠の守り

  • 焦禮は字を尚節といい、䝉古の人。父の巴爾斯台は太祖に帰順して通州衛指揮僉事となり、子の勝が嗣ぎ、伝えて榮義に至ったが子がなく、勝の弟の謙が嗣いで功を積んで都指揮同知に至った。謙が卒したとき子の衮什訥は幼く、謙の弟の禮が仮にその職を襲いで遼東を備禦した。
  • 宣徳の初め、禮は職を返すべきであったが、宣宗は禮の辺を守る労を思ってそのまま職に留まらせ、別に衮什訥に指揮使を授けた。禮はまもなく年功によって累進して都指揮同知となり、正統中に功を積んで右都督に至った。
  • 英宗の北征のとき、景帝は左副總兵に充てて寧逺を守らせた。まもなく額森が京師に迫ると、詔して禮に師を率いて入衛させ、寇が退くと鎮に還った。
  • 景㤗四年(1453年)、賊二千餘騎が興水堡を犯したのを禮が撃退し、璽書で奨励され左都督に進んだ。
  • 英宗が復辟すると、禮の辺を守った功によって召して入覲させ、東寧伯に封じて世襲とし、賜与がきわめて厚く、鎮に還らせた。兵部は禮が年八十に近く独任させるべきでないとして、都指揮の鄧鐸を遣わして協同で辺を守らせることを奏した。まもなく禮が鐸の欺侮を奏して転任を請うたので、都指揮の張俊を鐸に代えた。
  • 天順七年(1463年)、鎮所で卒し、侯を贈られ、諡は襄毅。禮は胆略があって騎射に精しく、少をもって衆を撃つのが巧みで、寧逺を守ること三十餘年、士卒は喜んで用いられ、辺境は静穏であった。

焦氏の子孫

  • 孫の夀が爵を嗣ぎ、子なく卒して弟の俊が嗣いだ。成化の末に甘肅・寧夏を歴鎮し、𢎞治中に南京前府を掌り操江を兼督し、出て貴州・湖廣を鎮した。俊は若いころ商売をしていたが、貴くなってからは士にへりくだることができた。ただし敵に当たることは得意ではなかった。
  • 卒して子の淇が嗣ぎ、かつて京營を分掌した。正徳中、劉瑾に賄して出て両府を鎮し、一年余りで卒した。弟の泃(洵)が嗣いだが、爵は嗣いだものの先代の家産はすべて淇の妻の所有となっており、生母が死んでも葬るすべがなく、哀憤のあまり病を得て卒した。
  • 子がなく再従子の陳が嗣ぎ、嘉靖中に五軍營を提督し中府を兼掌すること十年余、のち湖廣總兵に改まって卒した。太子太保を贈られ、諡は莊僖。爵は明の滅亡まで伝わって絶えた。