明史卷一百五十六 列傳第四十四 毛勝

麓川と北京防衛

  • 毛勝は字を用欽といい、もとの名を福夀といった。元の右丞相巴爾布哈の孫である。伯父の諾海が洪武中に帰順し、北平の功で都指揮同知に至ったが子がなく、勝の父の安泰が嗣いで羽林指揮使となり、子の濟に伝えたが濟にも子がなく、勝が嗣いだ。濟の北征の功を論じて都指揮使に進んだ。かつて塞外に逃げ帰ったが、まもなくまた自ら戻った。
  • 正統七年(1442年)、麓川征討の功で都督僉事に抜擢された。靖逺伯王驥が在京の畨將・舎人を選んで雲南で苗を捕らえることを請い、勝と都督冉保に六百人を統べて赴かせた。再度の麓川征討では二人を左右參將に充て、賊が平らぐと都督同知に進んだ。
  • 十四年(1449年)夏、額森が入寇を謀ると、勝は平鄉伯陳懐らとともに京師の兵三万を率いて大同を鎮した。懐は寇に遇って戦死し、勝は脱して還った。武清伯石亨の推薦で、景帝は勝を左都督に進め、三千營を督して操練させた。
  • 貴州の苗が大いに騒いだので勝に討伐を詔したが、出発しないうちに額森が京師に迫った。勝はこれを彰義門の北で防いで撃退した。二日後、兵を率いて西直門外で都督孫鏜の囲みを解いた。翌日、都督武興が彰義門で戦死し、寇が勝ちに乗じて進むと、勝は都御史王竑とともに急ぎ援け、寇はついに退いた。勝は紫金闗まで追撃してかなりの斬獲があった。

貴州・湖廣の平定と南寧伯

  • 事が定まると、左副總兵として河間・東昌の降夷を統べて貴州に赴くよう命ぜられた。賊首の韋同烈が香罏山に拠って乱をなしていたので、勝は總兵梁缺(梁珤)・右副總兵方瑛らとともに總督王來に従い、道を分けて挟撃した。重安江から進んで大破し、山の下に会師して四面から攻めた。賊は窮して同烈を縛って降った。
  • 還って湖廣の巴馬などの地の叛賊を討ち、二十餘寨を陥とし、賊首の吳奉先ら百四十人を擒え、斬首千餘級。南寧伯に封ぜられ世劵を与えられた。名を改めることを疏請し、許された。
  • 鎮を滕衝に移した。金齒芒市長官の刀放革がひそかに麓川の遺孽である思卜發と結んで変を起こそうとしたが、勝が策を設けて捕らえた。
  • 巡按御史の牟俸が、その貪暴不法数十事を弾劾し、さらに「勝はもと降人で狡猾で制しがたい。今また外夷としばしば通じており、辺患を残すおそれがある」と言った。詔して巡撫に事実を調べさせたが、ついに不問に付された。
  • 天順二年(1458年)に卒し、侯を贈られ、諡は莊毅。子の榮が嗣いだが、石亨の一党に坐して廣西に発せられ立功した。成化の初めに貴州を鎮し、まもなく両廣に移って卒した。子の文が嗣ぎ、𢎞治の初めに南京を協守した。爵は明の滅亡まで伝わって絶えた。