西寧の土官
- 李英は西畨の人。父の囊格は洪武中に衆を率いて帰順し、西寧州同知を授けられ、功を積んで西寧衛指揮僉事に進んだ。英が官を嗣いだ。
- 永樂十年(1412年)、畨の酋長婁達衮が叛いた。英はこれを撃ち、討來川で三百六十人を俘斬した。夜に雪が降り賊が逃げたが、追ってことごとく捕らえ、都指揮僉事に進んだ。
- 畨僧の張達爾瑪は訳書に通じ、成祖が左覺義を授けて西寧に住まわせたが、ほしいままな振る舞いが甚だしく、策を用いて西畨の貢使の財貨を奪い、逃亡者を匿い、外域と通じて悪事をはたらくこと十餘年に及んだ。英がその事を暴いて磔にして殺し、その家を籍没し、西の辺境は快とした。
安定・庫森の討伐と会寧伯
- 永樂の末年、中官の喬來喜・鄧成らが西域に使いし、道中の安定・庫森で賊に遇って殺され、携えていた金幣を掠められた。仁宗は璽書で赤斤・罕東および安定・庫森を諭して賊の首謀者の名を問いただし、あわせて英と土官指揮の康夀らに進討を敕した。
- 英は探索して、安定指揮の哈薩繖蘇克と庫森指揮の薩竒蘇が実際に使者を殺したと知り、兵を率いて西に入った。畨は驚いて逃げたが、追撃して崑崙山を越え、数百里深入りして雅爾噶に至り、安定の賊と遇って大破し、俘斬一千一百餘人、馬・牛・雑畜十四万を獲た。庫森の賊は風を聞いて逃げ、安定王の桑爾節沙克置らは恐れて闕に詣でて謝罪した。
- 宣宗は英の功を嘉し、使を遣わして褒諭し労をねぎらって宴を賜い、駅を馳せて入朝させた。到着すると右府左丞に抜擢し、賜与を等級を上げて与えた。宣徳二年(1427年)、㑹寧伯に封じ、禄千一百石、あわせて囊格にも子と同じ爵を封じた。
驕慢と失脚
- 英は功を恃んで驕り、行いに不法が多かった。寧夏總兵官の吏昭が英父子に異心ありと奏し、囊格が上章して弁明したので、敕を賜わって慰諭された。
- 英は西寧で逃亡者七百餘戸を招いて荘を置いて田を開墾させ、人の産を豪奪したので、また兵部および言官に弾劾された。帝は英を宥し、逃亡者を追って官に入れた。
- 七年(1432年)、西寧指揮の祁震の子の成が父の職を襲ぐべきであったところ、庶兄の嘉勒燦は英の甥であり、これを奪おうとした。成の従祖の太平が成を連れて京に赴いて弁明しようとすると、英は人を遣わして太平とその義子を奪い取って杖で打ち、義子はついに死んだ。言官がこぞって弾劾し、以前の罪にも及んだので、ついに英を詔獄に下し、爵を奪って死罪と論じた。正統二年(1437年)にようやく釈され、後にやや禄を給された。まもなく卒した。
- 英宗が復辟すると、その子の㫤を錦衣指揮同知に任じ、ついで都指揮使に進め、推薦によって左軍都督僉事に抜擢された。しばしば典籍の職務を分掌し、厳正慎重で称された。
李文――高陽伯とその罪
- 英の従子の文は、宣徳のころ陜西行都司都指揮僉事であった。西畨の思俄可がかつて他部の良馬を盗み、都指揮の穆肅が求めても得られなかった。折しも思俄可が家畜を辺で売ったので、肅は盗んだと誣告して捕らえ拷問して死なせた。畨人は恐れおののいて乱を思ったが、文がこれを弾劾して肅を逮えて吏に下し、西の辺境は静まった。累官して都指揮使。
- 天順元年(1457年)、駕を迎えた功を偽って都督僉事に進み、まもなく右都督として出て大同を鎮した。寇の二千餘騎が威逺を犯し、文が師を率いて破り、髙陽伯に封ぜられた。石亨が敗れて奪門の功を偽った者を取り消したとき、文は自首したが、帝は辺を守っているとして不問に付した。
- 四年(1460年)秋、保濟が大挙して入寇したが、文は兵を按じて戦わず、そのため寇は鴈門に入って忻・代の諸州を大いに掠め、京師は震え恐れた。寇が退くと文は召されて詔獄に下り、斬と論ぜられた。帝は文の死を宥して都督僉事に降し、延綏で立功させ、のち都督同知に進めた。
- 成化中、哈宻が土魯畨に併呑され朝廷に救いを求めると、詔して文と右通政の劉文を甘肅に遣わして経略させたが、功なく還った。𢎞治の初めに卒し、正徳の初めに髙陽伯を贈られた。