順義伯
- 金順はもとの名を阿爾噶錫哩といい、永樂中に帰順して大寧都指揮僉事を授けられた。従って布尼雅錫哩を破り、また阿嚕台を破り、累進して都督僉事。宣徳三年(1428年)、北辺巡視に従って斬捕の功があり、翌年、順義伯に封ぜられ、禄八百石。卒して子の忠が嗣いで指揮僉事となった。
忠勇王
- 金忠は䝉古の王子の額森托干である。もとより桀黠で阿嚕台に忌まれていた。永樂二十一年(1423年)、成祖が漠北に親征して上莊堡に至ったとき、妻子と部下を率いて帰順した。
- そのとき六師は深く入っていたが寇はすでに遠く逃げており、帝はちょうど功のないことを恥じていたところへ彼の帰順を見て大いに喜んだ。姓名を賜わって忠勇王に封じ、冠帯と織金の幣衣を賜い、列侯の下に坐らせ、御前の珍味を割いて賜い、さらに金銀の宝器を賜わった。忠は望外の喜びであった。班師の道中、忠は騎馬で従い、しばしば寇の中の事を尋ねられ、寵遇は日に厚くなった。
- 翌年、忠は前鋒となって阿嚕台を討ち身をもって報いたいと請うたが、帝は初め許さなかった。折しも大同・開平から警報が届き、諸将が忠の言に従うことを請うたので、帝はふたたび塞を出て、忠と陳𢡟を前鋒とした。しかし阿魯台は王師がまた出たと聞いて、あわてて達蘭納穆爾河を渡って逃げた。忠と(陳)懋は河に至ったが寇を見ず、白邙山に至ってもついに何にも遇わず、そこで班師した。
- 仁宗が位を嗣ぐと太子太保を加えられ、二俸を併せ支給された。
- 宣徳三年(1428年)、烏梁海に親征して寛河で寇を破ったとき、忠と巴布台が身をもって働くことを請うた。帝が許すと、遣わすべきでないと言う者があった。帝は「去るも留まるも本人の望みに任せるまでだ。朕が天下を有していて、この二人だけを欠くとでもいうのか」と言った。二人は数十人と馬・牛数百を獲て献じ、帝は喜んで中官に金の盃で酌ませ、そのまま盃を賜わった。
- 翌年、太保を加えられた。六年(1431年)秋に卒し、有司に喪葬を執り行わせた。
蔣信――忠勇伯
- 巴爾台は忠の甥で、忠に従って帰順し都督僉事を授けられ、宣徳の初めに蔣信の名を賜わった。正統中に忠勇伯に封ぜられた。
- 駕に従って土木で捕らえられ、額森は賽堪王の帳下に属させた。信は朔漠にいながら志はつねに中国にあり、たびたび上皇のもとに詣でては慟哭し、護衛にきわめて力を尽くした。のちについに駕に従って還り、詔してその禄をもとどおり給された。
- 景泰五年(1454年)に卒し、侯を贈られ、諡は僖順。子の伊埓索郭が爵を襲ぎ、天順の初めに善と改名した。𢎞治中に卒して子がなく、爵は絶えた。