明史卷一百五十六 列傳第四十四 呉成

靖難と北征

  • 呉成は遼陽の人。もとの名を瑪魯といい、父の屯巴は元の遼陽行省右丞であった。太祖のとき古通が来降し、屯巴父子もともに来た。瑪魯は今の姓名に改め、總旗に充てられ、しばしば大軍に従って塞を出た。
  • 建文元年(1399年)、永平衛百戸を授けられたが燕に降り、従って戦っていずれも功があり、三たび遷って都指揮僉事となって名を知られるようになった。南軍は呉瑪魯の名を聞いて、陣上で指さして注目する者が多かった。淝河に伏を設け、小河に進兵し、齊眉山で合戦し、靈壁で攻め敗るなど、いずれも力戦して功が多かった。
  • 成祖が即位すると都指揮使を授けられた。布尼雅錫哩征討に従って激しく戦い、布尼雅錫哩は七騎で逃げた。阿嚕台征討に従っては朱榮の兵と合して前鋒となり、科斡海まで追った。召還されて都督僉事に進み、さらに三たび出塞に従った。
  • 洪熙元年(1425年)、左都督に進み、陽武侯薛禄に従って大崧嶺を征し前鋒となって功があり、禄米を増された。

清平伯と興和の失態

  • 宣宗の初め、成がかつて東宮を宿衛したことがあるとして旧労を記録し、清平伯に封じ、禄千一百石、世劵を与えた。樂安征討に従い、また薛禄とともに前鋒となった。事が定まると出て興和を守備した。
  • 成は狩猟を好んで武備を修めず、寇がその狩猟に出る隙をうかがい、にわかに城に入ってその妻子を掠めて去った。帝はこれを聞いたが不問に付した。のちに阿魯台が入貢し、その家族を返した。
  • 三年(1428年)、帝の北征に従い、寛河で賊を破って侯に進み、禄はもとのままとされた。八年(1433年)に卒し、渠國公を贈られ、諡は壯勇。
  • 子の忠が先に死んでいたので、忠の子の英が伯を嗣いだ。卒して子の璽が嗣いだが、貪淫に坐して爵を奪われ、久しくして復した。卒して子がなく、従弟の琮が嗣いだ。四代伝えて元孫の遵用に至り、崇禎の末に京師が陥ちて殺された。

滕定――奉化伯

  • 滕定の父の瓉住は元の樞宻知院で、洪武中に帰順し、貴州衛指揮僉事を授けられ滕の姓を賜わった。燕の挙兵に従って燕山右衛指揮使に進んだ。卒して定が嗣官し、しばしば出塞に従って功があり、都督僉事に進んだ。宣徳四年(1429年)、奉化伯に封ぜられ、禄八百石。正統の初めに卒し、子の福が嗣いで指揮使となった。