永順伯
- 薛斌は䝉古の人で、もとの名を托歡といった。父の蘇台は洪武中に帰順して薛の姓を賜わり、累官して燕山右䕶衞指揮僉事となった。斌は職を嗣いで挙兵に従い、累遷して都督僉事。北征に従って功があり、都督同知に進み、永樂十八年(1420年)、永順伯に封ぜられ、禄九百石、指揮使を世襲とされた。
- 斌が卒したとき、子の碩通はわずか五歳で、叔父の貴に連れられて引見された。仁宗が立つと伯を嗣ぐよう命ぜられ、綬の名を賜わった。成長して驍勇善戦であった。正統十四年(1449年)秋、成國公朱勇らとともに鷂皃嶺で敵に遇い、軍が敗れた。弦が切れ矢が尽きてもなお空の弓を持って敵を打った。敵は怒って手足を裂いたが、のちに彼がもと蒙古人だと知って「これは我らの同類だ。だからこれほど勇健だったのだ」と言い、ともに哭した。諡は武毅。子の輔、孫の勲がいずれも伯を嗣ぎ、勲の子の璽は劵文どおり指揮使を嗣いだ。
薛貴――安順伯
- 薛貴はもとの名を托和齊といい、斌の弟である。舎人として燕王の挙兵に従い、しばしば王を危険から救い出した。官を積んで都指揮使となり、再度北征に従って都督僉事に進んだ。永樂二十二年(1424年)、安順伯に封ぜられ禄九百石。宣徳元年(1426年)、侯に進み禄三百石を加えられ世劵を与えられた。卒して濵國公を贈られ、諡は忠勇。
- 子がなく従子の山が嗣いで指揮使となった。天順の改元にあたり復辟の恩により、山の子の忠に伯を嗣がせた。卒して子の瑶が嗣ぎ、𢎞治中に卒し、子の昻は指揮使に降されて襲いだ。
李賢――韃靼出身の通訳
- 李賢はもとの名を綽緼といい、韃靼の人。元の工部尚書であった。洪武二十一年(1388年)に帰順し、訳書に通じていたので、太祖が姓名を賜わって燕府紀善を授け、燕の世子に侍して最も恭謹であった。北平で兵が起こると功労があり、累遷して都指揮同知。
- 塞外からの表奏および朝廷が降す詔敕はすべて賢に訳させた。賢もしばしば所見を陳べ、成祖はみな採用した。
- 仁宗が即位すると旧労を思って後軍都督僉事に進め、さらに右都督に進めて賜与がきわめて厚かった。まもなく召見してその病を憐れみ、忠勤伯に封じて食禄千一百石。まもなく卒した。