明史卷一百五十五 列傳第四十三 朱榮

交阯と北辺

  • 朱榮は字を仲華といい、沂の人。洪武十四年(1381年)、總旗として西平侯沐英に従って雲南を征し、累官して副千戸となり大寧を守り、成祖に降った。滑口に孫霖を襲い、定州を囲んで南軍の糧道を断ち、大小二十餘戦し、論功で都督僉事を授けられた。
  • 永樂四年(1406年)、新城侯張輔に従って交阯を征し、雞陵関を破り、白鶴で沐晟と会した。輔らが嘉林江の上流で渡河することを議し、榮を下流十八里に陣させ、日ごとに人数を増して賊を惑わせ、また舟筏を作って渡ろうとする様子を見せて牽制した。賊は果たして兵を分けて渡り上陸したので、榮らが撃って大破し、大軍は進んで多邦城を陥とした。榮の功が最も多かったが、帝は榮がかつて職務を怠ったことがあるとして、凱旋後の論功ではわずかに右都督に抜擢し、白金・鈔幣を賜わっただけであった。
  • 七年(1409年)、ふたたび輔に従って賊の余党を討ち平らげた。翌年、右掖を督して阿嚕台征討に従い、劉榮とともに左都督に進んだ。十二年(1414年)、また北征に従い、榮(劉榮)とともに前鋒となった。
  • その冬、總兵官に充てられて大同を鎮し、忙牛嶺・兎毛河・赤山・榆楊口・來勝の諸城を修めたので、寇は近づけなかった。三年いて召還された。十八年(1420年)、劉榮に代わって遼東を鎮した。
  • 二十年(1422年)、また北征に従って前鋒となり、鵰鶚に駐して寇を偵察し、五千騎で敵の動向を見た。大軍が玉沙泉に次すと、榮は鋭士三百人を率い、一人につき馬三頭、二十日分の糧を持たせて深入りした。敵はすでに牛・羊・馬・駝を棄てて北へ走っており、これをすべて収めてその輜重を焼き、軍を移して烏梁海を破った。軍が還ると武進伯に封ぜられ、禄千二百石、なお遼東を鎮した。
  • 二十二年(1424年)、また北征に従い、のち鎮に還った。洪熙元年(1425年)、征虜前將軍印を佩びて従前どおり鎮し、その年七月に鎮所で卒した。侯を贈られ、諡は忠靖。
  • 子の冕が嗣いだ。晉王濟熿が廃されたばかりであったので山西を鎮するよう命ぜられ、まもなく召還された。六年(1431年)、獨石への糧の輸送を命ぜられ、ついでその地を巡った。正統四年(1439年)、征西將軍印を佩びて大同を鎮し、十四年(1449年)、北征に従って陽和に戦い死んだ。諡は忠慤。子の瑛が嗣ぎ、爵は明の滅亡まで伝わった。