靖難と北征
- 劉榮は宿遷の人。初め父の名の「江」を冒していた。魏國公徐達に従って灰山・黒松林に戦い、總旗として燕邸に仕えた。雄偉で智略に富み、成祖が深く器とし、宻雲衛百戸を授けた。
- 挙兵に従って前鋒となり、しばしば戦功を立てた。山東を巡ったとき朱榮とともに精騎三千を率いて夜に南軍を滑口に襲い、数千人を斬り、馬三千を獲て、都指揮唐禮らを擒え、累進して都指揮僉事。
- 滹沱河に戦って浮橋を奪い、館陶・曹州を掠めて大いに獲て、還って北平を救い、平安の軍を平村に破った。楊文が遼東の兵で永平を囲むと、江が救援に赴いたが文は退いた。江は北平に帰ると声言して二十餘里行き、甲を巻いて夜に永平に入った。文は江が去ったと聞いてまた攻めに来たが、江が突出して奇襲し大敗させ、斬首数千、指揮王䧺ら七十一人を擒え、都指揮使に遷った。
- 淝河に従い、白義・王真とともに軽騎で平安を誘い出して破った。当時、南軍は宿州に駐して糧を積み持久の計を立てており、成祖はこれを憂えてその糧道を絶つことを議し、江に三千人を率いて向かわせたが、江はためらって行かなかった。成祖は大いに怒って斬ろうとし、諸将が叩頭して請うたので免れた。渡江の後の論功では、以前の罪ゆえに封ぜられず、ただ都督僉事を授けられ、中府右都督に遷った。
- 永樂八年(1410年)、北征に従い、遊撃將軍として前哨を督し、夜に乗じて清水源を占め、鄂諾河で敵を破り、また靖虜鎮で阿嚕台を破った。軍が還るとき殿となり、そのまま軍中で左都督に進み、遼東鎮守に遣わされた。敵が侵入して官軍を殺したため帝が怒って江を斬るよう命じたが、まもなく赦された。九年(1411年)、ふたたび遼東を鎮した。
- 十二年(1414年)、再度北征に従い、なお前鋒として精騎を率いて敵を偵察した。飲馬河で敵騎が東へ走るのを見て剛哈拉海まで追い数十人を撃ち斬り、また大軍と合して和實衮で瑪哈木特を撃ち、馬を下りて短兵で突進して斬獲が多く、上賞を受けた。
望海堝の大捷
- ふたたび總兵官に充てられて遼東を鎮した。倭がしばしば海上を寇し、北は遼にはじまり南は浙・閩に至るまで、海沿いの郡邑は多く被害を受けていた。江は地形を測って、金線島の西北の望海堝に城堡を築き、烽火台を設け、兵を厳しく備えて待つことを請うた。
- 十七年(1419年)六月、物見が東南の海島で火が挙がったと告げ、江は急ぎ兵を率いて堝に赴いた。倭の三十餘艘が至って馬䧺島に泊まり、上陸して望海堝に走った。江は山に依って伏兵を置き、別に将を遣わしてその退路を断ち、歩卒で迎え撃って偽って退いた。賊が伏中に入ると砲を挙げて伏兵が起こり、辰から酉まで戦って大いに破った。賊は櫻桃園の空堡の中に走り込んだが、江は西の壁を開いて逃がし、あらためて二路に分かれて挟撃し、ことごとく覆滅した。斬首千餘級、生け捕り百三十人。これより倭は大打撃を受け、ふたたび遼東に入ろうとしなくなった。
- 詔して廣寧伯に封じ、禄千二百石と世劵を与えた。ここではじめて名を「榮」と改めた。まもなく鎮に還され、翌年四月に卒した。
- 榮は将としてつねに軍の先鋒となり、向かうところ堅い陣はなく、士卒を御するのに紀律があり、恩信は厳明で、辺塞に帰順した者を撫し慰めることが行き届いていた。卒後、人はみなこれを慕った。侯を贈られ、諡は忠武。
劉安――襲爵と土木の後
- 子の湍が嗣いだが子なく卒し、弟の安が嗣いだ。
- 正統十四年(1449年)、郭登とともに大同を鎮していたとき、額森が英宗を擁して城下に至り、登を呼び出そうとしたが登は応じず、安が出て(上皇の)前に伏して哭した。景帝は敕を降して厳しく責めた。安が馳せて京師に至り、上皇の命を奉じて敵情を告げに来たと言い、さらに自分はすでに侯に進められたと言ったので、群臣がこぞって弾劾し、下獄して死罪と論ぜられた。
- 折しも京師が戒厳となり、安は釈されて總兵官に充てられ東直門に陣した。寇が退くと都督同知に進み、白羊口を守備して伯爵に復した。英宗が復位すると世襲の侯を与えられ、さらに禄三百石を加えられた。曹欽が叛いたとき安は負傷し、太子少傅を加えられた。成化中に卒し、嶧國公を贈られ、諡は忠僖。爵は明の滅亡まで伝わった。