明史卷一百五十五 列傳第四十三 費瓛

西鄙の平定

  • 費瓛は定逺の人。祖父の愚は洪武のとき燕府左相となり、燕山中䕶衛指揮使に改め授けられ、子の肅に伝わり、瓛に至った。瓛は成祖の挙兵に従って功があり、累進して後軍都督僉事。
  • 永樂八年(1410年)春、凉州衛千戸の呼巴、永昌衛千戸の額琳沁巴勒らが叛き、衆数千で驛路に屯拠し、新たに帰順した巴延特穆爾らがこれに応じ、西の辺境が震動した。都指揮李智は勝てず、賊は永昌・凉州の城を攻めると声言した。皇太子は瓛に討伐を命じた。
  • 凉州に至ると智および都指揮陳懐が兵を合わせ、そのまま鎮畨に進兵し、雙城で賊に遇った。瓛はその左を撃ち、懐らはその右を撃ち、賊は大敗して走り、斬首三百餘級。黒魚海まで追撃し、賊千餘、馬・駝・牛・羊十二万を獲た。呼巴らは遠く逃げ、そこで班師した。
  • 十二年(1414年)、總兵官に充てられて甘肅を鎮した。瓛は肅州が兵多く糧少なく、もし調発があれば急には手当てしがたいとして、臨・鞏の税糧を近辺の軍丁に付して転運させることを請うた。また凉州に空き田が多いとして、軍に給して屯墾させることを請い、いずれも許された。
  • 洪熙元年(1425年)、平羌將軍印を与えられた。永樂のころ諸辺はおおむね宦官を用いて協鎮させ、彼らがほしいままに軍務を専らにし、瓛もこれに制せられていた。仁宗はこれを知り、璽書を賜わって責め、「そなたは名臣の後として国の重任を受けながら、首を垂れて人に制せられている。大丈夫のすることか。痛切に自ら改め、後の功を図れ」と言った。瓛は書を得て陳謝した。
  • 宣宗が位を嗣ぐと右府左都督に進んだ。(宣徳)元年(1426年)七月に入朝し、崇信伯に封ぜられ禄千一百石。高煦征討に従って流河驛に次したとき、帝は前鋒の薛禄の軍が少ないことを気にかけ、瓛に兵を率いて増援させた。還って世劵を与えられ、ふたたび甘肅を鎮した。
  • 二年(1427年)、沙州衛の賊がしばしば賽瑪爾堪および伊蘭巴里の貢使を掠めたので、瓛が討ち破った。翌年、鎮所で卒した。瓛は人となり温和平易で、よく士を撫し、在鎮十五年、境内は静穏であった。
  • 子の釗が嗣ぎ、鄧茂七征討に従い、還って都督府を掌った。天順中、武定侯郭英の次孫の昭から賄賂を受け、(郭)昌が不孝であると誣告してその爵を奪おうとした。法司が逮捕して裁くことを請うたが、詔して府事を解くにとどまった。卒して子の淮が爵を嗣ぎ、明の滅亡まで伝わって絶えた。